第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、主として1920年代のパリで制作した外人画家たち、それも、キュビスムその他の特定の前衛活動に拘束されることなく、それらの流派の枠外で、叙情的、表現主義的傾向を求めた画家たちのグループをさす。当時、パリの画壇で活躍した福島繁太郎(しげたろう)(1895―1960)たちの命名によるもので、こうした流派が結成されたのでもなく、特定の運動がなされたものでもない。典型的な画家たちとしては、イタリアのモディリアニ、ロシアのシャガール、ポーランドのキスリング、リトアニアのスーチン、ブルガリアのパスキンたち。さらに、ポーランドのレオポルド・ゴットリーブLeopold Gottlieb(1879―1934)、ウジェーヌ・ザクEugène Zak(1884―1926)、ロシアのキコインMichel Kikoïne(1892―1968)、クレメーニュPinchus Krémègne(1890―1981)、マネ・カッツMané-Katz(本名エマニュエル・カッツEmmanuel Katz。1894―1962)、さらに日本のフジタなどを含めるのが通常である。いずれも、1883年から1900年の間の生まれ。パリでの制作は、20世紀初頭から1920年代初めに始まっている。この時期に、印象派以降の近代絵画史がパリを中心として成熟し、その前衛活動の推進力と、パリの芸術風土の自由な雰囲気によって、全世界の芸術家たちのあこがれの地としてのパリが成立し、かつてルネサンスから19世紀末に至るまで、ローマが占めていた地位を継いだことが、エコール・ド・パリ成立の要因である。パリが芸術の都として外人芸術家を魅惑し、一種のパリ派が形成されたことは、中世にも18世紀にもあり、第二次世界大戦後にも認められ、この第二次世界大戦後の外人画家たちを「第二次エコール・ド・パリ」とよぶ向きもある。しかし、本来便宜的な名称にすぎないエコール・ド・パリの呼称は、二つの大戦間のパリの外人画家たちの活動の特殊性を象徴的に表しているようである。
前述の画家たちが、フジタを例外としてすべてユダヤ系の外国人であり、とりわけ第一次世界大戦後は、なかば決定的に祖国から離れている。シャガール、マネ・カッツのように幼年時代の回想に永遠の主題をみいだした画家たち、あるいはモディリアニ、パスキンのようにパリの生活に溶け込んだ画家たちと、方向は千差万別であったが、なんらかの形で彼らの出生と母国の伝統の根をもち、国際的な流亡者としての哀歓の表現に彼らの絵画のすべてを捧(ささ)げていることも共通点の一つである。
同時に、それは、二つの大戦間の「第二のベル・エポック」と名づけられるよき時代のパリの青春、またその表面の華やかさなり伝説的な貧困の背後に底流する不安とも結び付いている。彼らはモンマルトル、モンパルナス、とくに後者で生活を営み、キュビスムの影響をも受け、個人的にも親交をもった。しかしそれにもかかわらず、それらの影響は部分的なものにとどまり、純粋な造形的実験なり、ある特定の理念の主張に走ることを避けて、日常的、具象的なテーマのみを追い求めたことに、前記のような精神的な背景があったというべきだろう。したがってそれらは、きわめてフランス的、さらに明確にいうならパリ風の表現主義としてとらえることが可能である。
[中山公男]
パリに定住し制作した外国人芸術家の集団を指し,各時代にこうした集団が存在したが,この用語が用いられるのは,(1)13世紀,聖ルイ王の保護下に手写本彩飾画を制作した画派,(2)第1次大戦前後から第2次大戦前までの間の画家たち,そして(3)第2次大戦後の主として抽象的傾向の外国人画家たちに関してである。しかし,通常は,主として二つの大戦間のパリ,それもモンマルトル,モンパルナスで制作した外国人画家たちに用いられる。しかし,たとえばキュビスムにおけるピカソやフアン・グリス,あるいはシュルレアリスムのダリたちは,いずれも外国人画家であり,エコール・ド・パリに属するが,これらの明確な運動,グループに属したものを除外する場合が多い。主要な芸術家を列記すれば,モディリアニ(イタリア),スーティン(リトアニア),シャガール(ロシア),フジタ(日本),パスキン(ブルガリア),キスリング(ポーランド),M.キコイン(ロシア),P.クレメーニュ(ポーランド)たちである。共通することは,彼らの大半がモンパルナスに住む芸術家であり,しかも単に祖国を離れてパリで制作したのではなく,なかば定住しており,多くはユダヤ系であったということ。また,フォービスム,キュビスム,シュルレアリスムなどの前衛的な運動に直接・間接に触発されながら,それら特定のグループに属さず,それぞれに個性的な画風を守ったということである。第1次大戦前および戦間期のパリは,〈ベル・エポック〉の名でよばれるように,若く貧しい芸術家たちにとって住みやすく創造的な環境であった。事実,この時期のパリでは,毎年定期的に開催される団体展(サロン)が20以上,個人画廊は130店あり,当時の世界のどの都市をもはるかにしのいでいる。1900-51年の間に,これらのサロン,画廊に出品した芸術家の総数は約6万人,そのほぼ3分の1が外国人だという。〈ベル・エポック〉は,他方で,二つの大戦の悲劇の予感と体験のなかですごされた時代である。前述の画家たちの多くが,いわば国籍喪失者であっただけに,その不安は倍加したと思われる。こうして,〈ベル・エポック〉の甘美な雰囲気と不安の二重写しとして,彼らの作風が成立する。相互の影響はあったが,共通の主張はもたず,むしろ,それぞれの祖国,民族の伝統性に彼らの作風のある根拠を求めている。しかし,そこには共通する情緒を認めることは困難ではなく,今日から見れば,きわめてフランス的な表現主義の傾向であったと考えることができよう。
執筆者:中山 公男
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(山盛英司 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…乳白色の絵肌に,面相筆による墨色で輪郭線をとり,数多くの裸婦や猫,あるいは室内風景を描き,その細密描法によって一躍名をあげ,21年には同展審査員となった。 数々の奇行と言動も加わって,エコール・ド・パリの寵児となるが,この時期にひとつの個性的な様式を確立させた藤田の芸術的価値に注目すべきである。西欧絵画の移植過程においてのみ考察されている近代日本の洋画史のなかで,独自の画風を確立させたことのみならず,後年,日本画壇と決別する際に残した〈国際的水準に達することを祈る〉という言葉に,藤田の,日本の美術界の閉鎖性を打破しようと努力した開拓者としての一面をみることができる。…
※「エコールドパリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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