改訂新版 世界大百科事典 「クナシリメナシの戦」の意味・わかりやすい解説
クナシリ・メナシ(国後・目梨)の戦 (くなしりめなしのたたかい)
アイヌ民族の松前藩に対する近世最後の武力闘争。近世には〈寛政蝦夷乱〉〈国後騒動〉〈寛政元年蝦夷騒擾〉などと称されたが,近代以降は〈寛政元年の蝦夷騒乱〉〈寛政の乱〉〈クナシリ・メナシの乱〉〈クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起〉などとも称される。
シャクシャインの戦が敗北して以来,アイヌ民族に対する松前藩の支配が一段と強化され,とりわけ元禄・享保期(1688-1736)に場所請負制が成立するや,アイヌ民族は交易相手から漁場の労務者へと変質させられていった。しかしアッケシ(厚岸)・キイタップ(霧多布)・クナシリなど,いわゆる〈奥蝦夷地〉のアイヌ民族と松前藩の関係は若干異なった状況にあった。アッケシには寛永年間(1624-44)藩主の交易場として商場(あきないば)が設置され(〈蝦夷地交易〉の項目参照),次いで1701年キイタップに,54年(宝暦4)クナシリに設置されたものの,3商場の経営は73年(安永2)まではアイヌ民族との交易を主軸とするもので,翌74年以降3商場が飛驒屋久兵衛の請負となった後も,数年間は交易を主とするものであった。しかも18世紀以降ロシア人が千島列島を南下しはじめるや,この地域のアイヌ民族はロシア人とも交易するようになったのである。飛驒屋がクナシリ商場の経営を請け負った後も,クナシリのアイヌ首長ツキノエが交易船を妨害したため,81年まで交易船を派遣できなかったという事実は,この地域のアイヌ民族の自立的な動きと深くかかわるものであった。加えて86年(天明6)幕府が飛驒屋の3商場請負を1年間中止させ,直接経営としたため,飛驒屋の損害は膨大なものとなった。そのため飛驒屋は,幕府の直営が中止されるや,損失分をとりもどすべく3商場の経営を交易から漁場経営へと転換するとともに,商場内のアイヌを徹底的に酷使し,松前藩士もこの状態を黙視していた。
こうしたなかでアイヌ民族の不満はついに爆発し,89年(寛政元)5月,クナシリ島のアイヌがいっせいに蜂起し,商場の支配人,番人,出稼漁夫などを殺害,さらに対岸のキイタップ商場内のメナシ地方に渡り,同地のアイヌと合流して各漁場を相次いで襲撃していった。この蜂起に参加したアイヌは,クナシリ41名,メナシ89名の計130名,死亡した和人は71名で,その多くが下北地方からの出稼者であった。松前藩は,急遽鎮圧隊を編成して根室半島ノッカマップに投入し,クナシリの首長ツキノエ,ノッカマップの首長ションコ,アッケシの首長イコトイの協力を得て蜂起参加者名を調べあげ,7月21日ノッカマップで蜂起参加者130名のうち和人を殺害した37名を処刑し,その首を塩漬けにして城下松前に持ち帰り,城下西郊外の立石野で梟首した。
→アイヌ
執筆者:榎森 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報