改訂新版 世界大百科事典 「蝦夷地交易」の意味・わかりやすい解説
蝦夷地交易 (えぞちこうえき)
蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。当時この交易で重要な役割を果たしたのが津軽十三湊(とさみなと)の安東氏であった。15~16世紀になると渡島半島南部に安東氏配下の小豪族が館を築いて群雄割拠し若狭の小浜や越前の敦賀の商人と交易したため,蝦夷地と上方を結ぶ商品流通・海運は一段と発展した。当時上方で若狭コンブとして知られたものは,箱館近郊産のコンブを小浜で加工したものであった。アイヌも館の所在地や十三湊・秋田などに来て交易した。その後諸豪族を統一した蠣崎(かきざき)氏(のち松前氏と改姓)は安東氏の代官となって事実上蝦夷地交易を独占し,蝦夷地へ出入りする商船に課税し,その一部を安東氏に上納したが,1593年(文禄2)豊臣秀吉,1604年(慶長9)徳川家康よりそれぞれ蝦夷地交易の独占権を公認されてここに松前藩が成立した。
松前藩は,この独占的交易を実現するため,領域を蝦夷地(アイヌ居住地)と和人地(松前地・シャモ地ともいう,和人の居住地。和人とは,内地出身者をさす北海道史の用語)に区分し,和人地以北の蝦夷地を封建支配者層の独占的交易の場としたうえで,各地に交易場としての商場(あきないば)を設置し,その多くを上級家臣に知行としてあてがい,松前三湊(松前,江差,箱館)に沖口番所を設置して出入り商船,荷物,人物などを取り締まった。松前藩の成立は,アイヌ民族の交易圏を著しく制約し,事実上松前藩,しかも藩主と商場持の上級家臣のみに限定することになったから,アイヌとの交易も,城下でのウイマム(目見得)と蝦夷地商場でのオムシャ(無沙汰の挨拶)ないしは〈蝦夷介抱〉という形態を介して物々交換を軸として行われた。しかし,ウイマムはしだいに領主への謁見というすぐれて政治的な支配・被支配関係を表す儀式へと変質し,交易の主体は蝦夷地の商場を中心としたものとなった。商場での交易は,年1~2回300石内外の縄綴船(なわとじぶね)で現地に向かい,酒・米・こうじ・タバコ・塩・なべ・小刀・針・古着・反物・糸・漆器・きせるなどとアイヌの生産品である熊皮・鹿皮・ラッコ皮・アザラシ皮などの獣皮,熊の胆(い)・鷲羽・干しザケ・串貝・いりこ・コンブ・干しダラなどの干物,オットセイ・エブリコなどの薬物などと交換したが,17世紀末以降商場の経営がアイヌ交易から場所請負人による漁業経営へと変質するにつれ,交易の比重はしだいに低下し,蝦夷地産物の主要なものは,ニシン,サケ,マスや中国向け輸出品としての長崎俵物(干しアワビ,いりこ,コンブ)などの海産物へと変化していった。それに伴いアイヌは交易相手から漁場の労務者へ転落させられるとともに,蝦夷地それ自体が幕藩制社会における大規模な漁業生産地,出稼労働地という性格を濃厚にしていった。
執筆者:榎森 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報