ロシアの代表的寓話(ぐうわ)詩人。貧しい陸軍大尉の子で、少年時代から文学を志し、1782年ペテルブルグへ出て、初め当時流行のコミック・オペラ、さらに喜劇や悲劇にも筆を染めたが、やがてジャーナリズムに転じ、雑誌『幽霊通信』(1789)、『見物人』(1792)、『聖ペテルブルグ・メルクリウス』(1793)を発行、自らも多数の風刺的エッセイを執筆した。雑誌はいずれも短命に終わったが、これらのエッセイは、官僚の横暴、地主貴族の道徳的退廃など当時のロシア社会の病弊を痛烈に揶揄(やゆ)したもので、この作家の風刺的才能が並々でなかったことを示している。94年からは筆を断って各地を放浪していたが、1806年ペテルブルグへ戻ってふたたび喜劇『流行品店』(1806初演)その他を書き、いずれも上演されて好評を博した。しかしこのころから寓話詩に専念するようになり、06年から書き始めた23編をまとめた第一集(1809)の公刊によって一挙に寓話詩人としての名声を確立、その後もペテルブルグ公衆図書館司書官補(1812~41)としての公務の余暇にもっぱらこのジャンルで作品を書いた。総計205編(ただし19年以後25年間は58編のみ)。あらゆる階層の読者に愛読され、発行部数は生前、すでに7万部を超えたという。
クルイローフの寓話詩は、教訓臭の強かった18世紀の寓話詩を真の意味の詩に高めたものといえる。ラ・フォンテーヌその他の翻案もあるが、大部分は創作で、詩風や動物たちの特徴づけは骨の髄までロシア的である。風刺のおもな対象は要するに権力者の無能と愚劣であるが、作者の視点はごく平均的なロシア人の、抜け目のない、常識的で保守的な処世哲学のそれである。雅語も俗語も自在に駆使しているが、いずれもテーマにぴたりと適合しており、とくに野趣と含蓄に富むロシアの諺(ことわざ)に学んだ俗語的表現の的確さはみごとというほかない。クルイローフの詩句が、あたかもわが国の百人一首と同じように、ロシア人の日常会話にしばしば引用されるのはそのためである。
[木村彰一]
『クルィローフ著、吉原武安訳『寓話』全2冊(日本評論社・世界古典文庫)』
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