グユク・ハン(読み)ぐゆくはん(その他表記)Güyük khaghan

日本大百科全書(ニッポニカ) 「グユク・ハン」の意味・わかりやすい解説

グユク・ハン
ぐゆくはん
Güyük khaghan
(1206―1248)

モンゴル帝国第3代皇帝(在位1246~48)。廟号(びょうごう)は定宗オゴタイの庶長子。1233年遼東(りょうとう)の蒲鮮万奴(ほせんばんど)を討ち、35年バトゥの西征にはオゴタイ家を代表して参加したが、途中バトゥと不和となり、父の激怒を買って帰還するとき、父の急逝の報を受け、急遽(きゅうきょ)カラコルムに入った。当初オゴタイの後継者に擬せられていた第3子のグチュはすでに亡く、慣例によりグユクの母后ドレゲネが監国(かんこく)(国政の代行)していた。本来グユクは父の即位前の故領エミールの相続人にすぎなかったが、母の努力により他の正后所生の諸子を抑え、反対するバトゥ不参加のまま強引にクリルタイを開き即位した。彼はネストリウス派キリスト教信者で、宰相のカダクやチンカイも同様であった。チャガタイ家に内政干渉し、当主を自派のイェスモンケにかえ、おそらくバトゥ征討のため旧領エミールに向かったが、横相乙児(クムセンギル)の地でバトゥの刺客に倒された。

杉山正明

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旺文社世界史事典 三訂版 「グユク・ハン」の解説

グユク=ハン
Güyük Khan

1206〜1248
モンゴル帝国第3代皇帝,定宗(在位1246〜48)
オゴタイ=ハン太宗)の長子。即位にはバトゥが反対したが,大ハン権力の強化高麗 (こうらい) ・南宋圧迫などを行い,ホラズム遠征の途上死去した。ネストリウス派キリスト教を保護し,イスラーム側からは敵視された。

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