日本大百科全書(ニッポニカ) 「グルック」の意味・わかりやすい解説
グルック
ぐるっく
Christoph Willibald Gluck
(1714―1787)
18世紀ドイツのオペラ作曲家。イタリア、フランスの伝統的オペラを改革し、自然な表現による簡素なオペラ様式を確立した。7月2日、エラスバッハに生まれる。1731年プラハ大学に入学、35年か36年にウィーンに進出、ロンバルディアの貴族メルツィに伴われてミラノに赴き、37~41年サマルティーニに師事する幸運を得た。処女作『アルタクセルクセス』などの成功でオペラ作曲家としてスタート、45年ロンドン招聘(しょうへい)ののち、ハンブルクでミンゴッティのオペラ一座に入りドレスデン、ウィーン、プラハ、コペンハーゲンなどを巡業。50年ウィーンの銀行家の娘と結婚し、この地での将来への基盤をつくる。52年ナポリでの『ティトゥス帝の慈悲』大成功ののち、ウィーンに定住。ザクセン・ヒルトブルクハウゼン家の音楽会を地盤に、しだいに帝室に進出、56年にはローマで『アンティゴノス』を初演、教皇より黄金拍車勲章を授与され騎士となる。イタリア・オペラ、フランス・オペラ・コミックをウィーン宮廷のために書いていたが、62年『オルフェオとエウリディーチェ』をウィーンで上演、イタリア・オペラ改革ののろしをあげる。演劇性の重視、レチタティーボの心理表現の強調などが主旨であった。
1772年以来パリにも進出、『アウリスのイフィゲネイア』『オルフェとウリディス』(1762年版のフランス語による改訂)によりフランス・オペラ界に波紋を投じ、「グルック‐ピッチンニ論争」がおこるが、79年の『タウリスのイフィゲネイア』の大成功は、彼の評価を決定的なものとした。すでに74年に宮廷作曲家の称号を得ていたグルックは、安楽な晩年をウィーンで過ごし、87年11月15日同地で没した。
[樋口隆一]
『グラウト著、服部幸三訳『オペラ史 上』(1957・音楽之友社)』