ソ連の政治家。7月6日ベロルシア(現ベラルーシ)のミンスク近郊で生まれる。1931年に入党。ミンスク農業大学、ソ連農業経済研究所大学院で学んだのち、1936年に経済研究所研究員となる。1939年に外務省に転じ、駐米大使、国連安保理常任代表、外務次官、同第一次官、駐英大使などを経て、1957年2月に外務大臣。以来1985年7月まで28年間その職にあった。1956年経済学博士。党でも1952年に中央委員候補、1956年に中央委員、1973年4月には職業外交官としてソ連史上初めて政治局員となる。1983年3月には外相兼務のまま第一副首相に昇進、1985年3月のゴルバチョフ書記長の選出にあたっては推薦演説を行った。同年7月外相を辞してソ連最高会議幹部会議長に選出され、国家元首となる。1988年に辞任。第二次世界大戦中から戦後にかけてのテヘラン、ヤルタ、ポツダムの各会議をはじめ、戦後の多くの重要会議に出席。長年の経験を生かし、外交に手腕を発揮した。
[中西 治]
ソ連邦の外交官,政治家。現在の白ロシア共和国ゴメリ州の農家に生まれ,1932年,経済大学を卒業後,研究機関に勤務していたが,39年から外交畑に転じ,まず外務人民委員部米州諸国課長,ついで駐米大使に任命され,第2次世界大戦中の重要な国際会議にも参加した。46-49年,国連安全保障理事会ソ連代表として活躍し,しばしば拒否権を行使したところから,〈ミスター・ニェット〉の異名を与えられた。その後外務次官,駐英大使を歴任し,53年には再び外務次官に戻り,57年2月には外務大臣に就任し,85年7月まで務めた。駐英大使時代,日ソ共同宣言(1965年10月)に先立つロンドン交渉にソ連側代表として臨んだ。この間,1931年に入党,20回党大会(1956)以降,中央委員のポストを占めていたが,73年4月には最高の政策決定集団である党政治局の正メンバーに抜擢された。最高会議議長を85年7月から88年10月まで務めた。
執筆者:平井 友義
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1909~89
ソ連の外交官,政治家。1943~46年に駐米大使,46年より国連安全保障理事会代表となった。49年には外務次官,57年に外相となった。冷戦期のソ連外交の顔で,「ミスター・ニェット」(ミスターNo)と呼ばれた。晩年は政治局員でもあった。85年外相をやめた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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