シェワルナゼ(読み)しぇわるなぜ(その他表記)Едуард Амвросиевич Щеварднадзе/Eduard Amvrosievich Shchevardnadze

デジタル大辞泉 「シェワルナゼ」の意味・読み・例文・類語

シェワルナゼ(Eduard Amvrosievich Shevardnadze)

[1928~2014]ジョージアグルジア)・ソ連政治家。グルジア共産党第一書記などを経て、1985年にソ連ゴルバチョフ政権下で外務大臣就任米国との冷戦終結ドイツ統一などの推進に貢献した。ソ連崩壊後はグルジア共和国の第2代大統領を務めた。在任1995~2003。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シェワルナゼ」の意味・わかりやすい解説

シェワルナゼ
しぇわるなぜ
Едуард Амвросиевич Щеварднадзе/Eduard Amvrosievich Shchevardnadze
(1928―2014)

ジョージア(グルジア)の政治家。1948年ジョージア共産党入党。1959年にクタイシ教育大学卒業後、ジョージア・コムソモール(共産青年同盟)と党活動に従事。1965年からジョージア共和国内務相、1972年同共和国党第一書記。1976年ソ連共産党中央委員、1978年政治局員候補とクレムリンの階段をかけ昇り、1985年7月書記長の任にあったゴルバチョフの抜擢(ばってき)により政治局員兼外相に就任した。ペレストロイカの重要な一翼を担ったが、保守派との妥協をみせ始めたゴルバチョフと袂(たもと)を分かち、1990年7月政治局員を辞任、1991年1月には外相も辞任した。同年8月の保守派クーデターでは、クーデター首謀者らに徹底抗戦の構えをみせた。ソ連が消滅し、独立国家共同体(CIS)創設後の1992年3月、ジョージア国家評議会議長に就任、同年10月国民投票によって最高会議議長に選出された。1995年11月、初の大統領選挙で当選。2000年4月の大統領選挙では再選を果たした。2003年11月、議会選挙の結果から政局混乱野党勢力に国会議事堂を占拠され、非常事態宣言を発令したが、軍の一部が野党に合流、同月23日大統領を辞任した。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シェワルナゼ」の意味・わかりやすい解説

シェワルナゼ
Shevardnadze, Eduard

[生]1928.1.25. ザカフカズ社会主義連邦ソビエト共和国,ママチ
[没]2014.7.7. ジョージア,トビリシ
ジョージア(グルジア),ソビエト連邦の政治家。ジョージア大統領(在任 1995~2003)。フルネーム Eduard Amvrosievich Shevardnadze。1948年グルジア共産党入党。1959年クタイシ教育大学を卒業。1948年からコムソモール活動に従事し,1957~61年グルジア・コムソモール中央委員会第一書記。1965~72年グルジア=ソビエト社会主義共和国の内務大臣を務め,1972年グルジア共産党中央委員会第一書記に就任,1976年ソ連共産党中央委員,1978年同党政治局員候補となる。1985年ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフによって政治局員に抜擢され,ソ連の外務大臣に任命された。ゴルバチョフの側近として,1988年アフガニスタンからのソ連軍撤退,アメリカ合衆国との軍縮交渉,グラスノスチ政策やペレストロイカ政策の推進などに貢献した。1990年に政権内の保守派台頭を警告して外相を辞任,1991年ソ連共産党を離党したが,8月クーデターののち短期間外相に復帰した。ソ連解体後の 1992年ジョージアに帰国,国家評議会議長を経て最高会議議長(国家元首)となり,グルジア内戦の終結に向けて努力した。1995年に行なわれた大統領選挙で勝利を収め,新憲法採択後初の大統領に就任。2000年に再選を果たしたが,2003年に議会選挙の混乱に続く政変により辞任した。

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