ドイツの天文学者。ウュルテンベルク公領ワイルの居酒屋の長男として生まれ、終生、病弱であった。4歳で天然痘のため視力を弱め、17歳のとき父が戦傷死し、以来、家族を扶養した。病身、貧困に加えて当時の宗教戦争といった社会不安にさいなまれながら、惑星運動の実相を追究し、いわゆる「ケプラーの法則」を発見した。
父が死去した年、聖職者を志してチュービンゲン大学の神学科給費生に合格、教養課程で、とくに教授メストリンMichael Mästlin(1550―1631)の天文学講義に興味をもち、コペルニクスの宇宙体系の説話に自然観を開眼した。また、専門課程の修得では新プラトン主義に傾倒した。彼の著述のなかに近代的な科学理論と中世的な神秘思想とが混在しているのは、この影響である。
1594年大学卒業後、グラーツ高等学校の数学教師に赴任、かたわら市長の委託で占星暦の編修を試み、厳冬や戦乱などの世相予言が的中して評判となった。その間、宇宙構造に関する構想をめぐらせて、1596年、最初の著作『宇宙の神秘』Mysterium cosmographicumを刊行した。これは、太陽を中心として6惑星(水星・金星・地球・火星・木星・土星)が、5個の正多面体に順次外接・内接することによって、その距離が保たれるという半思弁的な設定であった。この著述によって、ティコ・ブラーエやガリレイの知己を得た。翌1597年結婚したが、1599年に新教徒への迫害が始まり、1600年プラハへ移住した。ここにはコペンハーゲンから亡命したティコ・ブラーエがルードルフ2世の保護の下で火星の運行の観測を続行していた。ケプラーは勅許を得てティコの助手となり、以来ティコ他界までの1年半の間、共同研究を行った。恩師の臨終に際して、16年間にわたる観測資料の整理を遺言委託された。同時に後継者として宮廷数学官に任じられた。この当代随一の観測家から理論家への研究の引き継ぎは地動説の発展にとっては重要な契機となった。
その後のケプラーの精進は1609年の『新天文学』Astronomia novaとなって結実し、ここにいわゆる「ケプラーの法則」の第一、第二法則を収めた。第一法則「惑星は太陽を一焦点とする楕円(だえん)軌道を描く」の発見は、地球の軌道がほとんど円形に近いのに対して、火星の軌道がかなり楕円であったことから導き出された。第二法則「惑星と太陽を結ぶ動径は同一時間に等しい面積を掃く」は、思考の過程においていくつかの思い違いもあったが、正しい結論に達した。すなわち、ケプラーは、「惑星公転の原動力は太陽の磁気力による」「したがって太陽の自転によって惑星は推進する」「推進作用は日心距離に反比例する」「移動半径の総和が扇形面積となる」として第二法則を導いたのである。これらは、もっぱらティコの火星観測資料に基づくものであった。
第三法則「惑星軌道の長半径(太陽―惑星間の平均距離)の3乗は公転周期の2乗に比例する」は、全惑星の資料を見渡さなければ得られない質のものであり、その発見にはさらに10年間を要した。1619年の『世界の調和』Harmonice mundi(邦訳『宇宙の調和』)にそれが収録されている。多数の数値群のなかから単純比例関係を丹念に調べて、公転周期と平均距離との対応関係を発見したのであり、「天文を志した当初からの年来の望みが達せられた」と述懐している。とはいえ、この書の他の部分は、宇宙の基調精神を調和に求め、とくに和声学の原則との類推において惑星運行の原理を力説している。この神秘的思考は空論に類するが、3法則に基づいて対数計算した惑星の位置予報は『ルドルフ表』(1626)の名で刊行され、遠洋航海に必要な航海暦の基となった。
以上の著書のほか、『新星論』(1606)、『屈折光学』(1611)、『葡萄酒樽(ぶどうしゅだる)の新計量』(1615)、『彗星(すいせい)論』(1618)、『コペルニクス天文学概要』(1621)、『対数の理論』(1624)、『月天文学の夢』(遺稿)など、多くの業績を残したケプラーであるが、家庭生活には恵まれず、1611年に天然痘で妻と1子を失い、魔女嫌疑の老母の放免に奔走しなければならなかった。職場と住所も幾度かかわり、最後はワレンシュタイン侯のもとに未払いの俸給の請願に赴き、雪中、路上で死去した。
[島村福太郎]
『藪内清・島村福太郎編・訳『世界大思想全集31 ガリレオ・ケプラー編』(1963・河出書房新社)』▽『J・ケプラー著、渡辺正雄・榎本恵美子訳『ケプラーの夢』(1972・講談社/講談社学術文庫)』▽『大槻真一郎・岸本良彦訳『宇宙の神秘』(1982/新装版・2009・工作舎)』▽『岸本良彦訳『宇宙の調和――不朽のコスモロジー』(2009・工作舎)』▽『A・ケストラー著、小尾信彌・木村博訳『ヨハネス・ケプラー』(1971・河出書房新社/ちくま学芸文庫)』
ドイツの天文学者。コペルニクスの太陽中心説を支持したが,従来,円運動で説明されていた惑星運動を楕円軌道で表し,現代の教科書のうえでは,惑星運動の〈ケプラーの法則〉によって知られる。これは惑星は太陽を一焦点とする楕円軌道を描くという第1法則,軌道上の惑星の運行速度を定める第2法則,そして諸惑星の太陽からの距離と公転周期の関係を述べた第3法則とからなり,これらをさらに深いレベルで説明するために,のちにニュートンの力学が導かれた。ケプラーは宗教改革の嵐の中,グラーツやプラハなど各地を転々として生涯を終える。当初はプロテスタント神学を学び,数学や天文学の大学教師を務めたこともあったが,おもに君侯の庇護により,天文学や占星術に従った。天文学者としての仕事では,T.ブラーエのいたルドルフ2世治下のプラハでともに研究に従事し,その死後はブラーエの観測をまとめるとともに自分も天体観測を行って,《ルドルフ表》を1627年に完成させている。惑星運動の物理的原因の探究に関心をもち,太陽から発散する力によって惑星の運動,ケプラーの第1,第2法則をも説明しようとした試みは,《新天文学》(1609)に見えている。
17世紀の近代科学建設期に活動した彼の研究や発見の契機には,彼独特の美意識,新プラトン主義的な神秘思想が潜んでいる。その科学思想も深い意味での秩序と調和感によって満たされており,それはまた創造主としての神に直接結びつけられる。そこで彼は一種の宗教的情熱をもって宇宙における数学的調和をあくことなく求め続けた。《宇宙の神秘》(1596)において諸惑星軌道の大きさと五つの幾何学的正多面体の関係を求め,それがより数値的に精密になって,《世界の調和》(1619)でケプラーの第3法則になったのも,こうした動機に基づく探究の結果であった。《宇宙の神秘》《新天文学》《世界の調和》は彼の代表的な作品で,その中にケプラーの三つの法則は含まれている。《屈折光学》(1611)など光学上の業績も無視できない。晩年の作としては《夢》(1634)がある。これは月への旅行というサイエンスフィクションのはしりであり,同時に月から見た天体の運行を語ることによって,彼が熱心に支持したコペルニクスの太陽中心説を読者に説得する仕掛けになっている。
執筆者:中山 茂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(2013-5-21)
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1571~1630
ドイツの天文学者。1609~19年「惑星の3法則」を発見して地動説を数理的に完成した。また彼の『ルドルフ惑星表』(27年刊)はその後100年間にわたり天文計算の土台となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…フィレンツェ・プラトニズムの雄M.フィチーノは《太陽と光についてDe sole et lumine》を著して,その先鞭をつけたが,こうした新傾向の洗礼を受けた一人にN.コペルニクスがいた。まさしく天体の中でももっとも神聖な太陽こそ,そして中心からすべてを〈流出〉する源としての太陽こそ,宇宙の中心にあるべきであるとするコペルニクスやJ.ケプラーが,プトレマイオス流の地球中心的宇宙モデルを太陽中心的モデルに書き換えることになったのは,そうした太陽崇拝思想の結果としてむしろ自然なことであった。 しかし,コペルニクスにせよ,その太陽中心モデルを強力に支持したケプラーにせよ,あるいはG.ガリレイにせよ,宇宙の同心球構造と,その限界(閉鎖性)については疑問をもっていなかった。…
… その後,17世紀ごろまで目だったものはなかったが,地球と宇宙そのものに対する理解が深まるとともに,多くの人によって宇宙旅行が空想されるようになった。多くの観測データをもとに,惑星が太陽を焦点とする楕円軌道上を動くことを発見したJ.ケプラーも,月への旅行について思いを巡らし《ソムニウム(夢)》という月に移住する話を著した。またイギリスの僧侶F.ゴドウィンはこれをさらに発展させて,月の植民地を論じた書物を著しているし,シラノ・ド・ベルジュラックも,《日月両世界旅行記》に露の蒸発を利用して月に到達するという話を残している。…
…眼鏡は中世にすでに存在したが,17世紀初頭にこの眼鏡レンズから望遠鏡が発明され,これに続いて顕微鏡も作られた。望遠鏡はその発明直後に,ガリレイによって実用的なものに改良されたが,理論的研究のほうはケプラーとデカルトによってなされた。ケプラーはレンズによる結像理論を打ち立て,さらに,水晶体はレンズであり,網膜上に対象の倒立像が作られることによって視覚が成立することを明らかにした。…
…しかしルネサンスの時代になって,プラトンやピタゴラス学派の思想が原典を通して詳しく理解されるようになるにつれて,調和の観念は再び脚光を浴びるようになった。とりわけケプラーは,その主著のひとつが《世界の調和Harmonice mundi》(1619)と題されていることからもうかがえるように,世界の調和の観念を基軸に据えて,コペルニクスの太陽中心説を独特の仕方で展開した。和声【横山 雅彦】。…
…天文学が古くから高い段階の学問として成長したのは,それが民衆の生活に必要な知識を提供したばかりでなく,天体の運動にみられる整然さの中に人々が法則性をつかみとることができたからである。 近世における天文学はコペルニクスの地動説に始まり,ケプラー,ガリレイを経てニュートンに至って大きく進歩した。彼が発見した一般の力学法則および万有引力則に基づいて,18世紀には天体力学が著しく発達した。…
…彼は六分儀や四分儀などの器械を作ってここに置き,精密な天文観測を行ってその記録を残した。一時彼の助手をつとめたJ.ケプラーは,1609‐18年,この記録を整理して,有名な惑星運動の3法則を導いたのである。 一方,中国でも,伝説上ではあるが,尭帝の時代に,恒星の南中を観測して1年の長さをきめていたとされている。…
…〈井戸水を満たし……〉と銘文にしるされているのは,他の容器の体積との比較や倍量の構成のための具体的手段を教えるものと解される。 時代も地域もまったく異なるが,これとよく似た標準器が17世紀にドイツの天文学者J.ケプラーの手で作られた。これも円筒形で,直径は1エルレ,深さは2フースとし,体積を1アイメルと定め,また,これにドナウ川の水を満たしたときの質量の2/7を1ツェントネルZentnerと定めた。…
※「ケプラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新