ケプラー(読み)けぷらー(英語表記)Johannes Kepler

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケプラー」の意味・わかりやすい解説

ケプラー
けぷらー
Johannes Kepler
(1571―1630)

ドイツの天文学者。ウュルテンベルク公領ワイルの居酒屋の長男として生まれ、終生、病弱であった。4歳で天然痘のため視力を弱め、17歳のとき父が戦傷死し、以来、家族を扶養した。病身、貧困に加えて当時の宗教戦争といった社会不安にさいなまれながら、惑星運動の実相を追究し、いわゆる「ケプラーの法則」を発見した。

 父が死去した年、聖職者を志してチュービンゲン大学神学科給費生に合格、教養課程で、とくに教授メストリンMichael Mästlin(1550―1631)の天文学講義に興味をもち、コペルニクスの宇宙体系の説話に自然観を開眼した。また、専門課程の修得では新プラトン主義に傾倒した。彼の著述のなかに近代的な科学理論と中世的な神秘思想とが混在しているのは、この影響である。

 1594年大学卒業後、グラーツ高等学校の数学教師に赴任、かたわら市長の委託で占星暦の編修を試み、厳冬や戦乱などの世相予言が的中して評判となった。その間、宇宙構造に関する構想をめぐらせて、1596年、最初の著作『宇宙の神秘』Mysterium cosmographicumを刊行した。これは、太陽を中心として6惑星(水星・金星・地球・火星・木星・土星)が、5個の正多面体に順次外接・内接することによって、その距離が保たれるという半思弁的な設定であった。この著述によって、ティコ・ブラーエガリレイの知己を得た。翌1597年結婚したが、1599年に新教徒への迫害が始まり、1600年プラハへ移住した。ここにはコペンハーゲンから亡命したティコ・ブラーエがルードルフ2世の保護の下で火星の運行の観測を続行していた。ケプラーは勅許を得てティコの助手となり、以来ティコ他界までの1年半の間、共同研究を行った。恩師の臨終に際して、16年間にわたる観測資料の整理を遺言委託された。同時に後継者として宮廷数学官に任じられた。この当代随一の観測家から理論家への研究の引き継ぎは地動説の発展にとっては重要な契機となった。

 その後のケプラーの精進は1609年の『新天文学』Astronomia novaとなって結実し、ここにいわゆる「ケプラーの法則」の第一、第二法則を収めた。第一法則「惑星は太陽を一焦点とする楕円(だえん)軌道を描く」の発見は、地球の軌道がほとんど円形に近いのに対して、火星の軌道がかなり楕円であったことから導き出された。第二法則「惑星と太陽を結ぶ動径は同一時間に等しい面積を掃く」は、思考の過程においていくつかの思い違いもあったが、正しい結論に達した。すなわち、ケプラーは、「惑星公転の原動力は太陽の磁気力による」「したがって太陽の自転によって惑星は推進する」「推進作用は日心距離に反比例する」「移動半径の総和が扇形面積となる」として第二法則を導いたのである。これらは、もっぱらティコの火星観測資料に基づくものであった。

 第三法則「惑星軌道の長半径(太陽―惑星間の平均距離)の3乗は公転周期の2乗に比例する」は、全惑星の資料を見渡さなければ得られない質のものであり、その発見にはさらに10年間を要した。1619年の『世界の調和Harmonice mundi邦訳『宇宙の調和』)にそれが収録されている。多数の数値群のなかから単純比例関係を丹念に調べて、公転周期と平均距離との対応関係を発見したのであり、「天文を志した当初からの年来の望みが達せられた」と述懐している。とはいえ、この書の他の部分は、宇宙の基調精神を調和に求め、とくに和声学の原則との類推において惑星運行の原理を力説している。この神秘的思考は空論に類するが、3法則に基づいて対数計算した惑星の位置予報は『ルドルフ表』(1626)の名で刊行され、遠洋航海に必要な航海暦の基となった。

 以上の著書のほか、『新星論』(1606)、『屈折光学』(1611)、『葡萄酒樽(ぶどうしゅだる)の新計量』(1615)、『彗星(すいせい)論』(1618)、『コペルニクス天文学概要』(1621)、『対数の理論』(1624)、『月天文学の夢』(遺稿)など、多くの業績を残したケプラーであるが、家庭生活には恵まれず、1611年に天然痘で妻と1子を失い、魔女嫌疑の老母の放免に奔走しなければならなかった。職場と住所も幾度かかわり、最後はワレンシュタイン侯のもとに未払いの俸給の請願に赴き、雪中、路上で死去した。

[島村福太郎]

『藪内清・島村福太郎編・訳『世界大思想全集31 ガリレオ・ケプラー編』(1963・河出書房新社)』『J・ケプラー著、渡辺正雄・榎本恵美子訳『ケプラーの夢』(1972・講談社/講談社学術文庫)』『大槻真一郎・岸本良彦訳『宇宙の神秘』(1982/新装版・2009・工作舎)』『岸本良彦訳『宇宙の調和――不朽のコスモロジー』(2009・工作舎)』『A・ケストラー著、小尾信彌・木村博訳『ヨハネス・ケプラー』(1971・河出書房新社/ちくま学芸文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケプラー」の意味・わかりやすい解説

ケプラー
Kepler, Johannes

[生]1571.12.27. ウュルテンベルク
[没]1630.11.15. レーゲンスブルク
ドイツの天文学者。惑星運動に関するケプラーの法則で有名。テュービンゲン大学に入り神学を志したが,M.メストリンの影響で天文学に転じた。オーストリアのグラーツにあるルター派の高等学校の数学教師 (1594) 。宗教上の問題からグラーツを去り,プラハでルドルフ2世に仕える T.ブラーエの助手となる (1600) 。翌年ブラーエの死によりその跡を継ぎ,観測記録に基づく宇宙体系を組立てる仕事に取りかかり,新星 (ケプラー星) を発見 (04) 。ルドルフ2世死去後は新皇帝マティアスに仕えたが,経済的には貧困で,家庭にも恵まれなかった。ケプラーの天文学研究は,ブラーエの残した膨大で精密な観測データに基づきながら,それと適合する幾何学的パターンを探り当てようとするものであった。『宇宙の神秘』 (1596) で,5種の正多面体に6個の惑星軌道がはめ込まれた独特の宇宙構造を唱え,この基本構造に基づいて計算を進めた結果,惑星運動に関する楕円軌道 (第一法則) ,面積速度一定の法則 (第二法則) に到達し (1609) ,音楽における和声理論に依拠しつつ,諸惑星の周期の2乗がそれぞれの軌道半径の3乗に比例するという法則 (第三法則) を発見した (19) 。ケプラーの成果は,のちのニュートンの万有引力理論に重要な素材を与えたことによって,地動説確立に大きく貢献した。ほかに望遠鏡の理論研究などを通じて近代的光学理論の基礎を築いたことも無視できない。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報