一般には地球の自転,公転によって,天体現象を説明する理論をいい,その意味では〈太陽中心説〉と同義である。実際,ヨーロッパ語では〈地動説〉に当たる語は熟していない(英語ではhelio-centric model,helio-centric theoryがふつうである)。しかし,地球の回転運動の可能性は通常の意味での自転,公転以外にもあり,例えば,朝鮮での金錫文(1658-1735)のように非常に大きな時間のなかでの地球の回転を考えるような〈地動説〉もありうる(金錫文は今日でいう自転も認めていたと解される)。さらに,ちょうどヨーロッパ天文学の導入期に当たって,その影響を受けているとはいえ,同じ朝鮮の洪大容の説の場合のように,自転のみを認めるという事例,あるいは次に述べるギリシアのフィロラオスやヘラクレイデスのように太陽を中心としない地動説の事例もある。日本語の地動説は,儒家における天地,静動の概念の組合せによって生まれており,〈天静地動〉〈天動地静〉などの表現に淵源するとみることができる。
天文学史上著名な地動説はフィロラオスのそれに始まるといわれる。プラトンの著作に紹介されるフィロラオスの説は,中心火(太陽ではない)の周囲を地球(および対地球antichthōn)が回転し,その外側を月,太陽,五惑星も回転するというものであった。ポントスのヘラクレイデスは地球を宇宙の中心としながらも,地球の自転を主張した(彼は地球を除く他の惑星の周太陽回転運動をも考えていたとする説もある)。サモスのアリスタルコスに至って,太陽を中心とし,その周囲を回転(公転)しながら自転する地球という着想が生まれた。プトレマイオスの地球中心説(天動説)の成功で,こうした地球運動の可能性はその後論じられないままルネサンス期を迎えるが,地球運動論の復活はコペルニクスが最初ではない。14世紀フランスのニコル・オレームは《天体・地体論》で地球運動の合理性を論じ,15世紀ドイツのニコラウス・クサヌスは宇宙の無限性,地球の非中心性,世界の複数性などとともに,地球の運動を論じている。コペルニクスの地動説はむしろ,太陽中心説というべきで,自転,公転を前提とし,しかも太陽こそ宇宙の中心にあるべきであるという価値観に由来する教説である。ルネサンスから近代初期に太陽中心説が重要視されたのは,新プラトン主義的な太陽への崇敬が共有されていたからである(コペルニクス,ブルーノ,ケプラーら)。その後編暦の便宜性もあって,しだいにコペルニクス・モデルは浸透し,ケプラー,ニュートンの仕事で,一応理論的に落着する。
インドでは,ギリシア天文学の影響を受けた5世紀末のアールヤバタの《アールヤバティーヤ》が,著者の推定できる最初の体系的天文学書として知られているが,この書には,地球の自転説が登場していることでも著名である。もっとも本書では,それと等値の天球の回転説も併記されているし,計算の根拠は地球中心的な系に依存しているから,地動説を説いた書とはいえない。中国では明代,17世紀前半,イエズス会士J.A.シャール(湯若望)らは徐光啓らの助けを借りながらヨーロッパ天文学と洋暦の精力的な導入を図った。《崇禎暦書》(1631-34)は主としてチコ・ブラーエの二重中心説を中心にしたものだが,この当時の翻訳紹介された天文学書のなかには当然コペルニクス説やケプラー説に言及するものもあった。清になって,I.ケーグラー(戴進賢)の手で編まれた《暦象考成後篇》(1742)では,ケプラー説が全面的にとり入れられている。日本では,こうした明代の洋法に触れた漢籍が輸入され,それによってコペルニクスやケプラーの名はごく一部には知られていたと思われるが,それ自体として紹介されたのは18世紀後半,蘭書(らんしよ)の翻訳を通じてであった。長崎の通詞本木良永の《阿蘭陀(オランダ)地球図説》(1772),《天地二球用法》(1774),《新制天地二球用法》(1792)などがそれに当たる。《暦象考成後篇》は大坂の麻田派(麻田剛立,間重富ら)の天文学の柱となったし,江戸では画家司馬江漢が《地球全図略説》(1793)などを著して地動説の普及に努めたことが知られている。
執筆者:村上 陽一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地球は惑星の一員として自転しつつ、太陽を中心にその周囲を公転しているという宇宙模型。太陽中心説。古代・中世を通じて天動説(地球中心説)が人々の宇宙観を支配してきたが、16世紀になってコペルニクスの提唱に基づいて、この地動説に転回した。
地球が不動でなく、円形軌道を描いて空間を公転しているという構想は、古代ギリシア以来、フィロラオス(前5世紀)、アリスタルコス(前3世紀)、ニコラウス・クザーヌス(15世紀)、レオナルド・ダ・ビンチ(15世紀)らが唱えた。なかでもアリスタルコスの立論は観測資料に基づいたもので、もっとも合理的かつ具体的であった。彼は、太陽は地球より大きいゆえにその年周運動は地球の公転による、また恒星は太陽と同等の天体であるから、その日周運動は地球の自転による、と説く。すなわち地球は自転しながら太陽の周りを公転する。このアリスタルコスの構想はまさにコペルニクスの先駆である。しかし発表当時はプラトン、アリストテレスらの天動説が主流の時代であり、評価されなかった。アリスタルコスに関する手記は16世紀初期、北イタリア遊学中のコペルニクスによって日の目をみることができた。
コペルニクスがプトレマイオスの天動説をおいてアリスタルコスの地動説を選んだ理由の一つは、前者の複雑な技巧性に対して、後者の簡明な合理性を認めた点である。彼は地球の公転軌道の内側に水星と金星、外側に火星と木星と土星の公転軌道を決定した。この体系の優れた点は、公転周期の比較によって軌道半径比が幾何学的に算定されることである。
当時、遠洋航海用天体暦が正確さを欠き、船乗りの安全にかかわり、ひいては海外発展を阻むものとして問題になっていた。その原因は天動説による天体位置の推算にあった。コペルニクスは聖職の任務を果たしつつ、新宇宙体系による天体位置推算値を観測によって確かめた。
地動説は、コペルニクスの発表(『天球の回転について』1543)後、ローマ教皇庁の強権的圧迫を受けたにもかかわらず、近代科学発展の原点ともなった。ガリレイの望遠鏡による実証(1609)、ケプラーの公転に関する三法則の提唱(1619)、ニュートンの万有引力に基づく軌道解析(1687)などを経て、ブラッドリーの光行差の発見(1727)、ベッセルらの年周視差の検証(1838)によって、地動説は確固たるものとなった。
[島村福太郎]
『シャロン著、中山茂訳『宇宙論の歩み』(1971・平凡社)』▽『矢島祐利訳『天体の回転について』(岩波文庫)』▽『ガリレイ著、青木靖三訳『天文対話』上下(岩波文庫)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ポーランドのコペルニクスが,『天球の回転について』(1543年)で示した説。彼の計算は,恒星年(地球が公転して基準点に戻ってくるまでの時間)にもとづいていた。だが人々の生活,回帰年(春分から春分まで)とは誤差(=歳差)が生じる。宗教改革者ルターは聖書記載からの逸脱だと痛罵し,カトリック教会からは無視された。ガリレイは自作の望遠鏡による観察から,この説を公に支持した(1613年)ため,『天文対話』(32年)出版を契機に異端審問(33年)で有罪とされた。地動説,地球球体説(1519~22年のマゼラン一行の世界周航で実証,大地が平面でなく球面だとする説)は,当時の聖界,俗界とも顧慮しなかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…しかし,地球の運動を認めると起こると思われるさまざまな不つごう(例えば自転に際してなぜ風が生じないか)から,他の可能性を捨てて,地球中心説をとったのである。コペルニクスは,そうした不つごうを根本的に解消できなかったが,すでに述べた太陽中心的な宇宙観によって,その〈地動説〉を主張したと考えられる。 こうした事情はケプラーの場合にも当てはまる。…
…そしてアリストテレスの宇宙論は,古代末期にプトレマイオスの練りあげた離心円・周転円の天文学によって部分的に修正を受けながらも,その後2000年近くもの間,ローマ,アラビア,ヨーロッパへと受け継がれながら,つねに支配的な地位を確保することになる。これが解体を始める契機となったのは,16世紀中葉にコペルニクスの提唱した地動説であるが,世界像が価値的な観点から完全に脱却するには,デカルトの出現を待たねばならなかった。ケプラーはむろんのこと,ガリレイの世界像にもまだ伝統的なコスモスとしての世界の残滓がかなり残されていたのである。…
…地動説(太陽中心説)の提唱者として知られるポーランドの天文学者。ポーランド名Mikołaj Kopernik。…
…天文学が古くから高い段階の学問として成長したのは,それが民衆の生活に必要な知識を提供したばかりでなく,天体の運動にみられる整然さの中に人々が法則性をつかみとることができたからである。 近世における天文学はコペルニクスの地動説に始まり,ケプラー,ガリレイを経てニュートンに至って大きく進歩した。彼が発見した一般の力学法則および万有引力則に基づいて,18世紀には天体力学が著しく発達した。…
…正確な表題は《プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系についての対話Dialogo sopra i due massime sistemi del mondo,Tolemaico e Copernicano》であるが,日本では一般に《天文対話》と呼ぶのが慣例となっている。ガリレイは青年時代にコペルニクスの地動説に引きつけられて以来,長年にわたって宇宙論に関する研究を推し進めてきたが,その研究のいわば総決算としてまとめあげられたのが本書である。表題が示すように,天動説と地動説の優劣を討論するために集まった3人の登場人物(ガリレイを代弁して地動説を支持するサルビアチ,天動説を墨守するアリストテレス主義者のシムプリチオ,良識人のサグレド)の間で取りかわされる4日間の対話として構成されているが,各人物の語り口と議論の展開はきわめて精彩に富んでおり,対話文学史上でもまれにみる傑作として高く評価されている。…
※「地動説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新