コチャリャン(その他表記)Kocharian, Robert; Kocharyan, Robert

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コチャリャン」の意味・わかりやすい解説

コチャリャン
Kocharian, Robert; Kocharyan, Robert

[生]1954.8.31. アゼルバイジャンステパナケルト
ロベルト・コチャリャン。アルメニアの政治家。首相(在任 1997~98),大統領(在任 1998~2008)。フルネーム Robert Sedraki Kocharian。アルメニアとアゼルバイジャン領有権を主張するナゴルノカラバフ地域の政治・外交問題を中心に活動した。
ステパナケルト(現在のハンケンディ)に生まれ,父はアゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国のナゴルノカラバフ自治州で指導的な地位にあった。1972~74年にソビエト連邦軍に所属し,1982年にエレバン工科大学を卒業。のちにソ連共産党の幹部となるが,ソ連解体後は無所属となった。1980年代後半,ナゴルノカラバフのアゼルバイジャンからの分離とアルメニアへの統合を目指す運動の指導者になった。ナゴルノカラバフのアルメニア系住民がナゴルノカラバフ共和国(アルツァフ共和国)として独立を宣言した 1992年から,国防委員会議長および首相として対アゼルバイジャン臨戦態勢を整えた。1994年の停戦宣言をうけてナゴルノカラバフ共和国の初代大統領に選出されたが,共和国の独立は国際的に承認されなかった。1997年にアルメニアの首相に指名され,ナゴルノカラバフ共和国大統領の職を退いた。翌 1998年のアルメニア大統領選挙では,軍部と国内最大の組織力をもつアルメニア革命連盟ダシュナク党)の支持を得て大統領に選出された。アルメニアの旅券をもってはいたが,ナゴルノカラバフ共和国市民であると主張していたため,アルメニアの被選挙権を付与すべきか否かで論議を呼んだ。1999年10月27日,アルメニア最高会議で当時のバズゲン・サルキシャン首相ら 8人が殺害されるテロ事件が起こったのを機に,事件への関与や捜査妨害が疑われ,2002年春には野党が結集し,コチャリャン弾劾要求デモを毎週繰り返した。2003年の大統領選挙で再選を果たしたが不正疑惑がつきまとい,抗議運動と野党勢力の扇動は続いた。
在任中はナゴルノカラバフ紛争の平和的解決に向けて外交努力を続けたほか,国内では大統領の権限を制限する一方で議会の権限を強化し,基本的人権を拡大する憲法改正案の成立を主導した。また,ロシアイランなど近隣国と貿易・ビジネス分野で数多くの協定を締結し,経済状況を徐々に好転させた。三選が禁じられているため 2008年2月の大統領選挙では盟友セルジ・サルキシャンが当選した。しかし,直後から選挙結果に意義を唱える野党勢力が連日激しいデモを展開し,3月1日には治安部隊による暴力で 10人が死亡した。コチャリャンは 20日間の非常事態を宣言したが,このときの対応が弾圧にあたるとして 10年後の 2018年7月に逮捕された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コチャリャン」の意味・わかりやすい解説

コチャリャン
こちゃりゃん
Роберт Кочарыан/Robert Kocharïan
(1954― )

アルメニアの政治家。旧アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフ共和国(アゼルバイジャン共和国の自治州であったが、1991年に共和国樹立宣言)の首都ステパナケルト市の出身。アルメニア人。エレバン工科大学卒業の技術者であった。ナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を求める民族自立運動の最強硬派。前大統領テルペトロシャンLevon A. Terpetrosyan(1945― )に引き立てられて、1993年3月に首相になった。だが、同共和国の帰属問題に端を発したアゼルバイジャンとの民族紛争で、仲介に立った全欧安保協力機構(OSCE)が提示した和平案をめぐって、受け入れを表明した前大統領を「弱腰」と批判し、任期途中で辞任に追い込んだ。ただし1998年の大統領選挙では、大統領・議会・行政の各権限を明確に規定するための憲法改正や、エネルギー危機の解決、国営企業の民営化、税制・福祉制度の改革など、もっぱら内政課題の解決を強く訴えて支持を広げ、当選を決めた。2003年再選(~2008)。

[白井久也]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

[名](スル)二つ以上のものが並び立つこと。「立候補者が―する」「―政権」[類語]両立・併存・同居・共存・並立・鼎立ていりつ...

連立の用語解説を読む