ドイツ南部,バイエルン州にある都市。人口49万5300(2004)。ヨーロッパの南部と中部を結ぶ交通の要衝に位置する。中部フランケン地方にあり,ペグニッツPegnitz川に面し,ライン川,マイン川とドナウ川を結ぶライン・マイン・ドナウ運河にも面している。中世以来玩具製造,木彫,武具,時計製造などの手工業で有名であり,現在も電気器具やエンジンの生産のほか,レープクーヘンなどの食品生産も盛んである。この地方の商業の中心地でもある。
ペグニッツ川北側の城の下にゼバルドゥス教会を中心として成立した旧市街と,南側に12世紀以降成立したローレンツ教会を中心とする新市街とからなりたっていたが,1323年に一つの市壁で囲まれた町となった。第2次大戦中に大きな被害を受けたが,現在では修復され,城や市門,市壁が昔の姿で残っている。デューラー記念館があり,A.クラフトやV.シュトース,P.フィッシャーらの作品などは上述の二つの教会のほかフラウエン教会とゲルマン博物館にみることができる。
1050年にこの町ははじめて文書に登場し,この年に国王ハインリヒ3世が宮廷を開いている。70年ころには後に(1424年)聖人となるゼバルドゥスSebaldusの墓に巡礼者が増大しており,ニュルンベルクの町が賑わいをみせる発端となったと考えられる。すでに11世紀にここには市場があったとみられる。1112年にはニュルンベルクはフランクフルト,ドルトムント,ゴスラーと並んで関税徴収所となり,帝国自由都市となった。シュタウフェン朝のもとで市の法制が固められ,1219年の特許状でフリードリヒ2世は市に貨幣鋳造,関税徴収の特権を与えている。カール4世の金印勅書において,ニュルンベルクは国王選挙ののちに開かれる国会開催地とされている。神聖ローマ皇帝ジギスムントは1424年にニュルンベルクを帝国財宝の保管所とし,国王がしばしば滞在したこととあいまって帝国都市としての重みをましていった。
中世においてすでに傑出した技術によって,ニュルンベルクの手工業生産は大きな名声を得ていたが,この町の手工業者は同職組合(ギルド)を結成してはいなかった。都市の支配権は少数の都市貴族による市参事会の手にあり,広大な土地所有と遠隔地商業に根ざした商人層が市の実権を握っていた。1349-50年に同職組合を結成しようとして手工業者の蜂起があったが短期間で終わった。1500年ころにはニュルンベルクは最盛期を迎えた。W.ピルクハイマーやK.ツェルティスなどの人文学者,レギオモンタヌスのような天文学者をはじめデューラー,シュトース,クラフト,P.フィッシャーなどの芸術家,H.ザックスなどの詩人が活躍していた。1524年には宗教改革を受け入れ,プロテスタントに移行した。1623年から1809年までの間アルトドルフに大学もあったのである。しかしながら世界交易路が大西洋へと移るにつれて南北間の交通の要衝としての地位も揺らぎ,三十年戦争のなかでニュルンベルクの社会・経済的地位は衰退していった。1806年にはニュルンベルクはバイエルンに属することになった。しかしながら35年にはニュルンベルクとフュルトの間にドイツで最初の鉄道が敷かれ,近代都市への脱皮のきっかけが与えられた。19世紀にはニュルンベルクは工業生産の拡大によって,大都市に発展していった。1933年から38年までナチスはニュルンベルクで帝国党大会を開いた。また戦後の1946年から49年までこの町でドイツの戦争責任を追及する国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)が行われた。
執筆者:阿部 謹也
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ドイツ南東部、バイエルン州の都市。ペグニッツ川の両岸に発達する。人口49万3400(2002)で、州都ミュンヘンに次ぐ同州第二の都市。また南ドイツ有数の工業都市で、伝統のある金属工業のほか、機械、精密機械、光学・電気製品、玩具(がんぐ)、文具などの製造が盛んである。工業・住宅地区が周辺に拡大し、エルランゲン、フュルトとともに一つの経済空間を形成している。神聖ローマの帝国都市であったため、中心市街は城壁で囲まれ、再建された城(11~16世紀)や聖ローレンツ教会(14~15世紀)など、歴史的建造物が保存されている。また、この地で活躍した詩人ザックス、画家デューラー、彫刻家クラフトや、世界最初の地球儀をつくったベハイムらのゆかりの名所・旧跡も多い。大学、師範大学、造形美術アカデミー、応用技術アカデミーなどがあり、文化の中心地ともなっている。
[石井英也]
11世紀前半、神聖ローマ皇帝コンラート2世が王宮を開いたのが発展の始まりで、帝国貨幣鋳造所の設置と市場開設権の賦与(1062)、関税徴収所の設置(1112)など、着々と都市の機能を整えていった。1219年皇帝フリードリヒ2世の特許状により、帝国都市として貨幣鋳造、関税の徴収などの大幅な特権が確認された。カール4世の「金印勅書」(1356)により、新たに選出される歴代の神聖ローマ皇帝は最初の帝国会議をニュルンベルクで開催すべきことが規定され、政治的にも重要な都市となった。中世末・近世初頭の南ドイツの経済的繁栄期、いわゆるフッガー家の時代(15、16世紀)には、アウクスブルクと並んで重要な役割を演じ、ザックスやデューラーらもこの時期に活躍した。三十年戦争(1618~48)以降、経済的には下り坂になるが、19世紀以降、工業都市として再生する。ナチス時代、この地で毎年党大会が開かれ、その関係で第二次世界大戦後の戦争犯罪人に対する国際軍事裁判がここでなされた。
[平城照介]
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ドイツ,バイエルン州北部の都市。帝国城塞が基になり,13世紀に帝国都市となった。商業都市として15世紀に最盛期を迎え,市民文化が栄えた。現代史ではナチ党の党大会,また第二次世界大戦後の国際軍事裁判の開催地でもある。
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…これは火器が登場する以前の軍事的活動において,騎士の存在を際だたせたからである。武器鍛冶職のツンフトが南ドイツのニュルンベルクにできたのは13世紀末である。ちなみに,火器はまず大砲として登場したから,大砲鋳造職が鉄砲鍛冶職に先行した。…
…謝肉祭劇の作者には,今日のような専門の劇作家がいたわけではなく,その多くは普通の職人であったし,それら職人作家(マイスタージンガー)によって作られた劇はまた,しばしば親方に率いられた職人の一座によって,旅館兼営の酒場や個人の家の大広間など,カーニバルの宴の場所で座興的に演じられるのであった。地域的には,まずオーストリア南部に発生し,職人の諸国遍歴とともに広くドイツ語圏にひろまっていったと推定されるが,その中心はなんといってもニュルンベルク地方であり,この地で謝肉祭劇は集大成され,完成期を迎えたと見ることができる。ニュルンベルクにはシンチュウを扱う職人であったといわれるハンス・ローゼンプリュート(?‐1470ころ),理髪師兼外科医であったハンス・フォルツ(?‐1510ころ),靴屋の親方であったハンス・ザックス(1494‐1576)などの作者が時代を追って輩出し,特にザックスはその頂点に位置する存在として知られている。…
… 都市も成立当初においては市と結びついた祭礼の場であることが多く,そこから人々の崇拝の対象となった聖人の伝説と結びつく例がみられる。たとえばデンマーク王子として11世紀に生まれたとされるゼバルドゥスSebaldus(祝日8月19日)が富と地位をすて隠者としてニュルンベルク近くの森のなかに暮らし,多くの奇跡を行ったために多数の信者が集まり,ニュルンベルクは巡礼の地として発展したという。ゼバルドゥスがこうしてニュルンベルクの守護聖人とされるのであるが,それもあとになってつくられた伝説であった。…
※「ニュルンベルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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