改訂新版 世界大百科事典 「ゼツェッシオン」の意味・わかりやすい解説
ゼツェッシオン
Sezession
Secession
1890年代にドイツ圏の各地で起こった美術家の運動およびその組織のこと。セセッションともいい,〈分離派〉と訳される。アカデミーを中心とする既存の展覧会に受け入れられない若い世代の美術家たちが,古い体制からの分離,新しい展覧会組織の設立を目ざしたもので,ミュンヘン,ウィーン,ベルリンをはじめ,ライプチヒ,ダルムシュタットなど各地に次々と組織がつくられた。作品の傾向や芸術理念は各作家や地域によってさまざまであったが,いずれも19世紀末から20世紀初頭にかけて世評の支持も受け,ドイツ圏で主導的役割を果たした。
最初のものは1892年に設立されたミュンヘン・ゼツェッシオンで,その中心となったのは象徴主義の画家F.vonシュトゥックおよび自然主義の画家トリューブナーWilhelm Trübner(1851-1917)であった。次いで97年にウィーン・ゼツェッシオンがG.クリムトを中心として創設されたが,これはJ.M.オルブリヒ,J.ホフマンら建築家,工芸家をも多く含み,オーストリアにおけるユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)の中心となった。ベルリン・ゼツェッシオンは99年に,ドイツ印象派の代表者M.リーバーマンを中心として設立され,ドイツ最大の美術組織へと育っていった。ゼツェッシオンの運動は,19世紀末のドイツ美術界における新傾向,すなわち印象主義,象徴主義,ユーゲントシュティールなどが突破口を求めて一つの組織の形をとったものであり,その展覧会には,それらドイツ圏内の新傾向とともに,ゴッホ,ゴーギャン,ホドラー,ムンクといった近隣諸国の革新的芸術も次々と紹介された。しかしゼツェッシオンも評価の確立とともに保守化し,1910年ころには,新たに登場してきた表現主義の芸術家に対して守勢に回ることとなった。W.カンディンスキーを中心とした〈ミュンヘン新芸術家協会〉の設立(1909),ペヒシュタインMax Pechstein(1881-1955)を中心としたベルリンでの〈新ゼツェッシオン〉の設立(1910)など反ゼツェッシオン運動が起こり始めたことは,この運動の役割の転回を物語っている。以後ゼツェッシオンは保守派の拠点となってゆく。なお,この運動に刺激を受けて,20世紀初頭のアメリカで写真家A.スティーグリッツらが,フォト・セセッションの運動を起こしている。
執筆者:有川 治男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報