日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザール問題」の意味・わかりやすい解説
ザール問題
ざーるもんだい
Saarfrage ドイツ語
ザールラントSaarlandはドイツとフランスとの国境地帯にあり、石炭など重要資源を産するヨーロッパ有数の工業地帯であるため両国間にしばしばその領有ないし経済的利用をめぐって紛争が生じた。これをザール問題という。
まず、第一次世界大戦後、フランスはここを併合しようとしたが、英米の反対で失敗し、賠償の一部として炭坑の利用権を得たにとどまった。ベルサイユ条約はここを国際連盟監督下の自治地域とし、その最終的帰属の決定を15年後の住民投票にゆだねた。ドイツの早期復帰の外交的努力は結実しなかったが、フランスの現状維持ないし併合の努力も失敗した。1935年1月の住民投票では、ナチス・ドイツ下にもかかわらず、90%以上はドイツ復帰を希望し、現状維持は8.8%、フランス帰属は0.4%が表明したにすぎない。
第二次大戦後、フランスはここを占領すると、英米の黙認の下、ドイツから切り離して親仏的自治政府を育成するとともに、経済的統合の強化を図った。1947年11月の州憲法前文には、ドイツからの政治的独立、フランスとの経済的統合、フランスによる防衛権と外交権の行使などが明確に述べられていた。このような保護国化政策はドイツの反発を招かずにはおかない。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、難航のすえ、主権回復と北大西洋条約機構(NATO(ナトー))加盟=再軍備とが、54年10月パリ協定で認められるが、ここにはザール地位協定Saarstatutも含まれ、ザールラントのヨーロッパ化、つまり現状維持がうたわれていた。この地位協定が55年10月住民投票に付されると、68%弱は拒否し、親仏的政府は退陣せざるをえなかった。同年末の議会選挙では、西ドイツ編入を主張する政党が勝利を収めた。フランスはザールラントのドイツからの分離を断念し、56年10月27日西ドイツとザール条約Saarvertragを結ぶ。翌年1月1日ザールラントは西ドイツに編入されたが、経済的にもドイツに復帰したのは59年7月であった。フランスの政策転換の背景には、フランスに復帰したロレーヌ地方の工業発展に伴い、ザールラントの鉱・工業は伝統的な南ドイツ市場との結合を強化せざるをえなくなった事情がある。こうしてザール問題は解決された。
[吉田輝夫]