翻訳|reparation
一般には他の人や国に与えた損害を、与えたものが償うことをいうが、ここでは、戦争の結果として敗戦国が戦勝国に支払う損害の補償のことに限定して解説する。平時における国際法上の賠償については「国際責任」の項を、また、国内問題としての賠償については「国家補償」「刑事補償」「損害賠償」「公害健康被害補償」などの項を参照されたい。
国家間の紛争が戦争という形で決着がつけられた場合に、戦勝国が敗戦国に罰金の意味で軍事償金military indemnityを課する慣行は17世紀以降一般的となっていたが、19世紀になると償金に関する条項を講和条約に盛り込むのが通常となり、第一次世界大戦後には賠償という語が用いられるようになった。
[清水嘉治]
第一次世界大戦後の賠償問題の中心は、イギリス、フランスなどの戦勝国が、敗戦国とくにドイツに対して課した賠償金とその支払いをめぐる諸問題である。1919年6月に調印された「ベルサイユ講和条約」では、同盟および連合国の普通人民とその財産に対して加えられたいっさいの損害を敗戦国が賠償すべきであると規定したが、賠償金の総額、支払方法、時期、分配率などについては、戦勝国の国内事情やアメリカへの戦債償還問題が絡んで、各国間で大きな利害の対立があった。
1921年4月のロンドン会議において、連合国はドイツの賠償総額を1320億金マルク、1937年払いとしたが、これは当時のドイツの支払能力をはるかに超えるものであった。翌1922年末には早くもドイツは支払いができなくなり、履行を求めるフランス、ベルギーは1923年1月にルール地区を占領した。しかし、この強行政策はマルクの暴落と政治不安を招き、連合国間の支持を得られなかった。そこで、アメリカやイギリスを中心に、資金導入を前提とするドーズ案が作成され、1924年8月のロンドン会議で採択されて実行に移されたが、5年後にはふたたび履行不能に陥った。1929年6月には最終的な支払案としてヤング案が作成され、翌1930年1月のハーグ会議で採択された。しかし、おりからの大恐慌の影響で、またも支払いが困難となり、1932年7月のローザンヌ会議では、賠償支払いの実質的な停止が合意をみた。このドイツに対する賠償請求は過酷にすぎたため、ドイツ経済の破綻(はたん)を促進し、ナチス台頭の一因になったといわれる。
第二次世界大戦後の賠償問題の中心は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連などの戦勝国が、敗戦国とくにドイツと日本に対して行った賠償請求にあった。第一次世界大戦後のドイツ賠償問題の反省から、第二次世界大戦後の賠償では、経済の非軍事化を進めること、金銭賠償方式をやめて役務賠償および実物賠償方式を採用することを基本方針とした。
ドイツに対しては、1945年2月の「ヤルタ協定」と同年8月の「ドイツ国に関するポツダム宣言」で、経済の非軍事化という原則を規定した。具体的には、1945年12月の「パリ協定」と1946年3月の「賠償管理委員会案」が示されたが、ドイツの生産力を1936年の75%に圧縮し、賠償工場として1800を指定、そのうちの75%を連合国賠償機関が処理し、25%をソ連が処理するというものであった。1947年には原案を訂正し、1936年の生産力と同一水準に維持することとし、賠償工場を858に縮小した。さらにマーシャル・プラン実施のため、賠償工場は最終的には667となった。その評価額は7億0850万ライヒス・マルク(1938年価格)とされている。
[清水嘉治]
日本の賠償に対する連合国の基本的立場は、1945年(昭和20)7月の「日本国に関するポツダム宣言」に示されており、経済の非軍事化を厳しく貫こうとするものであった。具体的には、同年12月の「ポーレー中間賠償計画案」や1946年11月の「ポーレー最終報告」で示されたが、日本の生産力を1931年(昭和6)の水準に切り下げ、1000工場を賠償工場として撤去するというものであった。しかし、米ソの対立が表面化するにつれて、アメリカの対日政策に変化が生じ、1947年4月には、ソ連、フランスなどの反対にもかかわらず、連合国最高司令部(GHQ)の緊急指令をもって、中間賠償の指定工場1000工場の30%を撤去して、中国15%、フィリピン、オランダ、イギリスにそれぞれ5%ずつ引き渡す措置を強行し、さらに1949年5月には、残余の中間賠償の撤去中止を一方的に声明した。
1951年9月のサンフランシスコ講和会議では、アメリカは無賠償の立場で臨んだが、アジア諸国の反対のため、条約には単に賠償原則のみを規定し、具体的な賠償協定は関係国の個別的な交渉に任せることとした。賠償請求の意思表示をしたのは、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシア、ベトナム、カンボジア、ラオスの6か国であったが、のちにカンボジアとラオスは放棄したので、残り4か国との間に交渉が行われ、1963年3月のビルマとの追加賠償協定の締結によって賠償交渉は完了した。その結果、4か国合計で、役務および実物による賠償約11億6200万ドル、経済協力費または経済開発借款約7億4600万ドルを支払うこととなった。日本の賠償支払いは順調に実施され、1977年には完了したが、この賠償支払いは、一面では、被支払国に対する日本の経済進出の足掛りになったともいわれている。また1965年の日韓基本条約では両国の一般的国交関係を規定し、日本の韓国への賠償支払額として無償3億ドル有償2億ドルで決着した。もちろん旧条約の失効、管轄権、国連憲章の遵守、貿易の回復、民間航空の開設なども規定した。
[清水嘉治]
『岡野鑑記著『第一次大戦後における賠償及戦債問題』(1946・日本評論社)』▽『岡野鑑記著『日本賠償論』(1958・東洋経済新報社)』▽『高橋進著『ドイツ賠償問題の史的展開』(1983・岩波書店)』▽『阿部泰隆著『国家賠償法』(1988・三省堂)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…国際資本移動とは,いくつかの種類の異なる国際金融取引の総称であるが,一般に経営資源(生産技術や経営上のノウ・ハウ)を含む広義の資本という生産要素が国際的に移動することである。国際資本移動は,(1)間接投資,(2)直接投資,(3)経済援助,贈与および賠償からなっている。(1)の間接投資とは,A国の居住者(政府,公共体は除く)がB国の居住者の証券(株式,社債,国債)を買うか資金を貸し付けることである。…
…もう一つは,このような社会観念を前提にして,統治権者の撫民(ぶみん)の立場から,これをチェックしようとした公家法や幕府法にみられる〈窃盗軽罪観〉である。幕府法では,盗品である贓物を銭で換算し,その額の大小により罪の軽重を定めているが,基本的には,盗人の〈一身(いつしん)の咎(とが)〉におよばない賠償制が採用されていた。この刑罰の賠償制は,盗みを単なる物の移動としてとらえ,その物の返済,もしくはその不当な占有期間に見合う弁償を加えれば,罪を解消し原状を回復しうるという考え方にたつもので,世界諸民族の盗犯に対する法の標準的法理であったといえる。…
※「賠償」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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