日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュレージエン戦争」の意味・わかりやすい解説
シュレージエン戦争
しゅれーじえんせんそう
シュレージエンSchlesien(ポーランド語名シロンスクŚląsk)の領有をめぐるオーストリアとプロイセンとの戦争。1740~63年の間に3次にわたり繰り返され、すでに始まっていた英仏植民地戦争の一局面でもあった。
[進藤牧郎]
第一次
(1740~42) マリア・テレジアのオーストリア・ハプスブルク家継承に際して、プロイセンのフリードリヒ2世は、シュレージエン地方の一部に対する領有権の承認を求め、40年12月出兵、全シュレージエンを占領、オーストリア継承戦争の口火を切った。マリア・テレジアの苦境に乗じ、42年6月ブレスラウで和し、7月ベルリン条約でごく一部を除いて全シュレージエンの割譲を認めさせた。
[進藤牧郎]
第二次
(1744~45) マリア・テレジアが、ドイツ皇帝カール7世Karl Ⅶ(在位1742~45)を支持したバイエルン、フランスに対して反撃に転じ、ミュンヘンを落としプラハを回復すると、フリードリヒは、シュレージエンの喪失を恐れて、ふたたびベーメン(ボヘミア)に出兵したが撤退を強いられ、マリア・テレジアの夫フランツ1世Franz Ⅰ(在位1745~65)の皇帝承認を条件に45年ドレスデンの和議において、領有を確定できた。
[進藤牧郎]
第三次
(1756~63) 七年戦争ともいう。マリア・テレジアはシュレージエンを奪回しようとしてフランス、ロシアと同盟し、プロイセンはイギリスと結んでこれに対抗、7年間戦われたが、フベルトゥスブルク条約(1763)でプロイセンのシュレージエン領有が再確認された。
[進藤牧郎]