ジョアン6世(英語表記)João Ⅵ

改訂新版 世界大百科事典 「ジョアン6世」の意味・わかりやすい解説

ジョアン[6世]
João Ⅵ
生没年:1767-1826

ポルトガル王。在位1816-26年。マリア1世の子。ポルトガル史上最も混乱に満ちた時代に病気のマリア1世に代わって国政をあずかった(1792)。ナポレオン大陸封鎖令に服さなかったため,1807年フランス軍の侵略を受け,同年11月摂政ジョアンは本国統治をイギリス人ベレスフォードにゆだね,宮廷もろともブラジルに亡命した。イギリスの圧力で調印されたブラジルの開港(1808),イギリス・ポルトガル通商条約(1810)はポルトガルの経済に壊滅的な打撃を与えた。20年本国のポルトで商業ブルジョアジーを中心とする自由主義革命が起こり,急拠帰国したジョアン6世は彼らの要求を承認した。ブラジルでは22年,王子ドン・ペドロが独立を宣言した。次男のドン・ミゲルは立憲王制に反対し,23年,24年反動勢力を率いて反乱を企てたが,鎮圧され,ウィーンに亡命した。25年国王はブラジルの独立を承認し,翌26年後継者問題を解決しないまま死去した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジョアン6世」の意味・わかりやすい解説

ジョアン6世(温厚王)
ジョアンろくせい[おんこうおう]
João VI, o Clemente

[生]1767.5.13. リスボン
[没]1826.3.10. リスボン
ポルトガル王 (在位 1816~26) 。マリア1世の子。スペインの王女カルロタと結婚 (1785) ,1799年母后の病気のため摂政となった。ナポレオン1世の大陸封鎖に反対したために,1807年フランス軍に侵入され,同年ブラジルに遷都した。この間本国は半島戦争に入り,ナポレオン軍退却後はイギリス人による支配が行われたが,20年自由主義革命が起り,帰国したジョアン6世はコルテスの制定した新憲法を承認,ポルトガルは立憲王制となった。これに反対する専制政治派は王の次男ドン・ミゲルを擁してジョアン6世と抗争した。 22年長男ペドロがブラジル皇帝となり,ブラジルはポルトガルから離れて独立国となった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

367日誕生日大事典 「ジョアン6世」の解説

ジョアン6世

生年月日:1767年5月13日
ポルトガル王(在位1816〜26)
1826年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジョアン6世の言及

【ポルトガル】より

…中世のポルトガル教会では他の西欧カトリック諸国同様に古い聖歌が歌われ,一般社会には民衆的な歌を歌い歩く,また種々の弦・管・打楽器を奏して歩く楽師たちがいたことはまちがいない。15~16世紀のルネサンス時代になるとアフォンソ5世,ジョアン3世ら,音楽好きの王がポルトガルに目だち,宗教的な多声合唱音楽をはじめ,世俗歌曲,初期の劇音楽なども発展をみせた。16世紀の主要な作曲家には人文主義者のゴイス,パイバHeliodoro de Paiva(1502?‐52),カレイラAntónio Carreira(1525ころ‐89ころ)らがある。…

【マリア[1世]】より

ポンバル侯を退けたが,彼の政策はそのまま継承された。1792年発狂して国政から遠ざけられ,ドン・ジョアン(のちジョアン6世)が摂政についた。ポルトガルは18世紀末から植民地交易と国内産業の発展でかなりの繁栄をみるが,1807年フランス軍が侵入したため,王室はブラジルに亡命,以後急速に衰退した。…

※「ジョアン6世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

大臣政務官

各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...

大臣政務官の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android