改訂新版 世界大百科事典 「ダレイオス1世」の意味・わかりやすい解説
ダレイオス[1世]
Dareios Ⅰ
ペルシア帝国の王。在位,前522-前486年。ダレイオスはギリシア語読みで,古代ペルシア語ではダーラヤワウシュDārayavaush。またラテン語,英語などではダリウスDariusという。アケメネス朝傍系のヒュスタスペスHystaspēsの子。カンビュセス2世の弟バルディヤと偽って王位を奪したマゴス祭司のガウマータGaumātaを,6人のペルシア貴族とともに襲って殺し,即位を宣言した。つづいて起こった帝国各地の反乱を1年のあいだに鎮圧し,この功業を記念してビストゥンに碑文を刻ませ,新都ペルセポリスの建設を開始した。その後もリュディア,エラム,サカ族,エジプトの動揺を抑えて帝国の再統一を果たすと,さらにインダス地方に進出し,前513年にはトラキアから黒海北岸のスキタイ人の地に向かって親征をおこなった。同じころ,リビアの併合が実現した。治世後半に起こったイオニア諸都市の反乱(イオニア反乱)は,彼にギリシア本土への遠征を決意させたが,派兵は2度(前492,前490年のマラトンの戦)とも失敗に終わった。前486年秋にエジプトが離反し,その対策を講ずるまもなく,11月に没した。
彼の時代にペルシア帝国は最大領域に達したが,彼のもっとも重要な貢献は征服事業よりも中央集権的支配体制の確立であった。即位後,国内秩序の回復をみるやただちに行政改革に着手し,全国を20(あるいは20余)州に分けてサトラップを派遣するとともに,監察制度を強化し,同時に各州の納税額を定めて国家財政の安定をはかった。また,初めて金・銀2種の欽定貨幣を鋳造したが,金貨はダレイコスDareikosと呼ばれてギリシア人のあいだでも有名であった。交通制度の整備にはとくに意をもちい,国内の主要幹線道路には駅伝制を整え,スエズにナイル川と紅海を結ぶ運河を開削し,ギリシア人スキュラクスSkylaxに命じてインドからエジプトに向かう航路を探検させた。ヘロドトスによれば,ペルシア人はダレイオスを〈商売人〉と評したという。たしかに彼は現実主義的な政治家であったが,その実行力が深い宗教性に支えられていたことは,ビストゥンその他の彼の碑文から明らかである。
執筆者:佐藤 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報