日本大百科全書(ニッポニカ) 「ストロッツィ」の意味・わかりやすい解説
ストロッツィ
すとろっつぃ
Bernardo Strozzi
(1581―1644)
イタリア盛期バロックの画家。ジェノバ生まれ。学者になるべく父親に養育されたが、15歳のときその死により画家を志す。最初の師は当時同地に滞在していたシエナの画家ピエトロ・ソッリPietro Sorri(1556―1621/1622)である。17歳のときカプチン修道会に入り、そのためのちに「ジェノバの僧」あるいは「カプッチーノ」とあだ名される。1610年、家計を支え、芸術に専心するため教団を去る。1614~1621年、港湾技術者としてジェノバ共和国に奉職。一方、画業においては、師から受け継いだマニエリスムの残滓(ざんし)を捨て、自然主義的傾向を強めたが、それには当時ジェノバに滞在していたフランドルの巨匠、ルーベンスやファン・ダイクの感化によるところが大きい。『料理女』(パラッツォ・ロッソ)はこの時期の代表作。母親の死後、家計を支える必要がなくなったにもかかわらず教団に戻るという約束を反故(ほご)にしたため、裁判沙汰(ざた)となり投獄されたが、1630年ベネチアに逃れる。しかし、同地では『F・エリッツォ総督の肖像』(ウィーン美術史博物館)などの公的に重要な仕事に携わり、1635年にはモンシニョーレ(カトリックの高位聖職者に与えられる尊称)の称号を得た。同地でカラバッジョの影響を受けた内外の画家やベロネーゼの作品に接することにより、彼の色彩は明るく澄み、豊かな色調を得、『聖ロレンツォの施し』(聖ニッコロ・ディ・トレンティーノ聖堂)などの優品を残した。
[三好 徹]