カルリスタ戦争(読み)カルリスタせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「カルリスタ戦争」の意味・わかりやすい解説

カルリスタ戦争 (カルリスタせんそう)

19世紀スペインで3回にわたって戦われた内戦。フェルナンド7世には嫡子がなかったため,後継者は弟ドン・カルロスCarlos María Isidro de Borbón(1788-1855)と目されていた。だが兄王は晩年,娘イサベル(後の2世)が誕生するにあたり,1713年以来用いられてきた女子相続を否定するサリカ法を廃棄した(1830)。王位継承権を喪失したドン・カルロスは,兄王の死を契機に正統の継承権を主張してカルロス5世を名のり,彼を擁立しようとする人々(カルリスタCarlistas)とともに,イサベル2世と摂政の皇太后マリア・クリスティナを相手どって蜂起。第1回カルリスタ戦争(1833-40)となる。戦いはおもにカルリスタの結集する北部,カタルニャ地方,マエストラスゴ(東部の山間地帯)で行われ,カルリスタは,北部でスマラカレギ,東部でカブレラを指揮官に立て,エスパルテロ将軍を司令官とする政府軍と対戦した。しかし,カルリスタは内部抗争で弱化し,39年政府側に有利なベルガラ協定を結び休戦する。第2回戦争(1846-49)では,ドン・カルロスの長男モンテ・モリン伯がカルロス6世を名のって蜂起。幾度か政府軍と交戦したが全国的規模に至らず,49年フランスへ亡命した。60年に再度スペインへ入国するが,逮捕され,王位継承権放棄を表明した後追放された。第3回戦争(1872-76)では,カルロス7世を名のる伯の甥が,ナバラ,カタルニャで善戦したが,政府側はアルフォンソ12世の即位を機に結束し,カルリスタは壊滅した。当初は,王権争いの色彩が濃い内戦であったが,第2回以降,背後の政治的・社会的対立の方が表面化した。すなわち,自由主義と中央集権主義を代表する政府側に対し,専制主義伝統主義,地方の特権や自治を擁護するカルリスタ側という対立で,前者に都市中産階級,後者には農民,教会が荷担した。その後も,カルリスタは一政治勢力として存続し,ブルボン家や第二共和制に反対,スペイン内戦では反乱軍側についた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルリスタ戦争」の意味・わかりやすい解説

カルリスタ戦争
かるりすたせんそう

19世紀中葉のスペインで3次にわたり起きた内戦(第一次1833~39、第二次1846~48、第三次1872~76)。フェルナンド7世の没(1833)後、当時3歳の王女イサベルの王位継承(摂政は母后)を認めず、王弟ドン・カルロスの即位を求める勢力(カルリスタCarlistas)が蜂起(ほうき)した。王族内紛争の形をとったが、カルリスタはおもにバスク、ナバラ、カタルーニャ地方の民衆に支持された。とくに農民、職人層には義勇兵としてカルリスタ軍に投じる者が多かった。ナポレオンのスペイン支配を覆した独立戦争(1808~14)でゲリラとして活躍した民衆は、相次ぐ政変と改革の不徹底に失望し、資本主義の跛行(はこう)的発展による経済苦境にあった。この不満のエネルギーは、中世的地方特権(フェロ)擁護、政教合一の「古きよき時代」への回帰を説き、ドン・カルロスをシンボルとする保守的貴族、教会によって領導された。1839年のベルガラ会戦の敗北(ドン・カルロスは亡命)後、中央政府の和解提案をめぐり、カルリスタは受容派(教会、貴族)と抵抗派(下級貴族、民衆)に分裂、ドン・カルロスにかわる王位請求権者の選定は抵抗派の手に移り、民衆戦争の性格を強めた。中央政府は3次にわたる戦争でいずれにも軍事的には勝利したが、隠然たるカルリスタ勢力を無視しえず、この戦争は現代スペイン国家形成に大きな影響を及ぼした。

[山本 哲]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カルリスタ戦争」の意味・わかりやすい解説

カルリスタ戦争
カルリスタせんそう
Carlistas(Carlist) War

カルロス戦争とも呼ばれる。 1833~39年と 72~76年にスペインの王位継承権をめぐって,教会,貴族の絶対主義的反動派のカルリスタス (→カルロス主義 ) と,地主,ブルジョアの自由主義的勢力との間に起った内乱。第1回目はスペイン王フェルナンド7世が『サリカ法典』の男子相続の規定を廃止して,娘イサベルを後継者と定めたことから起った。そのため王位継承者であったフェルナンドの弟ドン・カルロス (1788~1855) は兄の死後,イサベルの摂政マリア・クリスティナに反抗して内乱を起したが,失敗してフランスに敗走,39年のベルガラ協定で終結した。第2回目はドン・フアンの子のドン・カルロス (48~1909) が企てたが,これも失敗に終り,追放された。この内乱は,王位継承が直接の原因であるが,政治的・社会的・宗教的要因をも含んでいる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カルリスタ戦争」の解説

カルリスタ戦争(カルリスタせんそう)
Guerras Carlistas

スペインで3度にわたって戦われた内戦。第1次は1833~39年,第2次は46~49年,第3次は72~76年。フェルナンド7世の王位継承をめぐり,王弟のドン・カルロスを正当な継承者として擁する人々(カルリスタ)が33年に蜂起したのが発端。その拠点はカタルニャ北部,バレンシア北部,特にバスク地方とナバラ。農民,聖職者,地方貴族を中心に自由主義に敵対し,伝統の維持,なかでも絶対主義と地方諸特権の存続を要求した。

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百科事典マイペディア 「カルリスタ戦争」の意味・わかりやすい解説

カルリスタ戦争【カルリスタせんそう】

1833年スペイン国王フェルナンド7世の死後,3歳の娘イサベルの即位に反対して,王弟カルロスを擁する勢力カルリスタCarlistasがイサベル2世と摂政マリア・クリスティナに王位継承権を要求して起こした戦争。1839年イサベル側の将軍エスパルテロがカルロス派を破り,講和して終結。余波は長く国内対立の一因となった。
→関連項目ドン・カルロスナルバエス

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世界大百科事典(旧版)内のカルリスタ戦争の言及

【スペイン】より

…しかし,この王位継承に対して,フェルナンド7世の弟ドン・カルロスを擁立するとともに,地方の特権を求める北部のカトリック伝統主義勢力(カルリスタ)が異論を唱え,ついには内乱へと発展していった。戦いの凄惨さから諸外国に粗暴なスペイン像を与える契機となったこのカルリスタ戦争に際して,摂政マリア・クリスティナはそれまで敵対していた自由主義者の援助を求めざるをえなかった。それゆえ,制度としてこの時からスペインは自由主義体制へと移行し,ヨーロッパ化への道程を歩き始めた。…

【ナバラ】より

…一方,ピレネー北側のフォア伯領バス・ナバールは,1589年,アンリ・ド・ナバールがアンリ4世としてフランス王に即位するとフランスに合併された。19世紀半ばカルリスタ戦争勃発で,ナバラはエステリャを中心にカルリスタの伝統主義的カトリック勢力の拠点となった。第1次戦争の終結後,1841年にすべての地方特権が廃止されたが,69年協定で旧慣習法の復活を得,名目上の旧ナバラ王国の政治体制を維持した(フォラール体制)。…

【バスク】より

… フランス革命,ナポレオン軍のスペイン侵攻は,自由主義思想の普及,さらに自由主義勢力の台頭による中央集権的統一国家観の導入に役立った。自由主義者と伝統主義者の対立は中央と地方の対立でもあり,1833年カルリスタ戦争の勃発は地方特権の擁護のための戦いとなった。バスク地方のカルリスタ(伝統主義者)は敗北し,41年,地方諸特権は廃止された。…

【ビルバオ】より

…18世紀には新大陸との交易で繁栄した。19世紀,伝統主義者によるカルリスタ戦争が起こったとき,この町はブルジョアジーを中心に自由主義派の拠点となり,カルリスタに包囲された。19世紀末の産業革命後,工業化が進み,大量の非バスク人が移入すると,伝統と既得権の保護・復活を求めてバスク民族運動が開始された。…

【マリア・クリスティナ】より

…1833年王の死後,3歳の娘イサベルを王位に就け(イサベル2世),摂政に就任。その際,王弟カルロスが王位継承を要求し,第1次カルリスタ戦争が勃発すると,自由主義勢力の支援を受け対抗した。そのために自由主義進歩派による農地改革など急進的な改革を実施,進歩的な37年憲法を制定した。…

※「カルリスタ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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