ドイツの理論物理学者。ケーニヒスベルク(現、ロシア領カリーニングラード)に生まれ、ゲッティンゲン大学に学んだ。1895年同大学私講師となり、1906~1945年ミュンヘン大学理論物理学教授。
ボーアは1913年にプランク、アインシュタインのエネルギー量子の考え方を長岡‐ラザフォードの原子模型に持ち込み、水素原子が放出・吸収する光の波長を説明するのに成功したが、ボーアの理論では、原子内の電子は、古典的な軌道のうち、特定の条件(量子条件)を満たすものだけをとるとされた。
一方、ゾンマーフェルトは、量子条件を水素原子という特定の対象だけでなく、一般の物理系にも適用できるように拡張した(1914)。この研究は、当時日本から留学中であった石原純(あつし)によっても行われた。さらにこの一般化された量子条件を、ボーアの理論には含まれていなかった原子内電子の楕円(だえん)軌道計算に応用して成功した。これらの研究は、古典力学から量子力学への過渡的な理論であった前期量子力学の基本的な柱を築くものとなった。このほか、ゾンマーフェルトの研究には、X線スペクトルや金属の電子論に関するものもある。1942年、力学をはじめ6巻に及ぶ体系的な教科書を執筆したが、これは古典的物理学のもっとも整った教科書の一つとして絶賛を博し、各国語に翻訳されて今日も広く用いられている。
[山崎正勝]
ドイツの物理学者。東プロイセンのケーニヒスベルクの生れ。1886年,ケーニヒスベルク大学に進み数学を専攻,卒業後,93年10月から1年間ゲッティンゲン大学の鉱物学研究所の助手を務め,次の2年間はC.F.クラインの助手となるが,この間にクラインの影響を受け数理物理学への関心が強まった。97年10月からクラウスタールの鉱山大学の数学教授となり,電磁波の伝搬やX線回折についての境界値問題を研究,またクラインと共著で《こまの理論》(1897-1910)を出した。1900年4月には,アーヘン工業大学の応用力学の教授となり,彼の研究テーマはより工学上の諸問題の数学的解法の探究へと向かうことになった。しかし,04-05年の電子論の研究が彼を有名にし,その結果06年にミュンヘン大学の理論物理学教授職に就くことになったことから,その方向は一変した。講義の必要性から集中的に物理学の新しい問題を研究し,07年にはM.プランクに支持されたアインシュタインの特殊相対性理論をいち早く認め,さまざまな物理現象に応用し,実り多い成果をあげた。その一例にはX線発生の制動放射の理論がある。こうした研究が,アインシュタインの相対性理論を速やかに認めさせるのに貢献したといわれる。13年に量子論の発展がN.H.D.ボーアの水素原子の理論として現れると,彼はボーア理論を拡張して原子の問題に対し基本的な計算式を確立した。
また,ゼーマン効果の量子論的扱いをP.デバイとともに研究し,それらの成果は《原子構造とスペクトル線》(1919)にまとめられ,前期量子論の発展に重要な貢献をした。彼の研究室からは,W.パウリやW.K.ハイゼンベルクなどの優れた後継者が輩出した。
執筆者:日野川 静枝
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