デバイ(読み)でばい(英語表記)Peter Joseph Wilhelm Debye

日本大百科全書(ニッポニカ) 「デバイ」の意味・わかりやすい解説

デバイ
でばい
Peter Joseph Wilhelm Debye
(1884―1966)

オランダマーストリヒトに生まれ、第二次世界大戦後アメリカに帰化した物理学者。今日、化学物理と総称される領域の開拓者として、分子構造論、誘電体論、電解質溶液論、高分子溶液論などの多面的な業績で著名であり、またX線回折におけるデバイ‐シェラー法は広く知られている。初めアーヘン工業大学で電気工学を学んだが、のちミュンヘン大学でゾンマーフェルトに師事し、1908年学位取得、1911年A・アインシュタイン後任としてチューリヒ大学教授となった。ユトレヒト大学、ゲッティンゲン大学、チューリヒ工科大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学などを経て、1936年新設のカイザー・ウィルヘルム研究所(後のマックス・プランク研究所)物理学主任となり、同年「双極子モーメントおよび気体X線・電子線回折による分子構造の決定」でノーベル化学賞を受賞。第二次世界大戦期、国籍問題で不当な処遇を受け、1940年アメリカに渡り、コーネル大学教授となり、1946年アメリカに帰化した。

 デバイの名をまず高からしめたのは、1912年の固体の比熱理論である。アインシュタインの比熱理論(1907、1911)の後を受けて、それを改善し、等方的固体の比熱が絶対温度の三乗に比例することを示し、ボーアの原子構造理論(1913)に先だって、量子論的方法の有効性を明らかにした。同年、双極子能率をもった有極性分子の概念を提示した最初の理論を発表し、これは、引き続く彼の誘電体理論の出発点となり、今日に残る名著『有極性分子』Polare Molekeln(1929)としてのちに集大成される。1916年には粉末試料に対するX線回折のデバイ‐シェラー法を考案し、広く使われるようになった。これは、気体および液体に関するX線・電子線回折の理論的ならびに実験的研究(1927~1930)へと引き継がれ、今日の物理化学的研究の土台の一つとなった。

 彼の名をもっとも有名にした業績は、強電解質溶液に関する「デバイ‐ヒュッケルの理論」であろう。1923年、ヒュッケルと共同して、完全電離説の立場にたった統計力学的理論を発表し、現代の電解質溶液理論の出発点を与えた。戦後、高分子溶液の光散乱理論(1944、1947)および粘性理論(1946)などの研究を進め、高分子物性論の開拓、発展に貢献した。彼はまさに今日に至る化学物理学諸領域の開拓者であった。

[荒川 泓]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デバイ」の意味・わかりやすい解説

デバイ
Debye, Peter Joseph William

[生]1884.3.24. マーストリヒト
[没]1966.11.2. ニューヨーク,イサカ
オランダ生れのアメリカの物理化学者。 1910年ミュンヘン大学より学位取得。チューリヒ大学,ユトレヒト大学,ゲッティンゲン大学,ライプチヒ大学を経て,カイザー・ウィルヘルム研究所の理論物理学部部長 (1935) 。 40年アメリカへ講演旅行に出かけたあとオランダがドイツに占領されたため,アメリカにとどまり,コーネル大学教授 (40~50) 。 16~17年にX線結晶学では試料が粉末でも可能な技法 (デバイ=シェラー法 ) を開発して応用範囲を広げ,今日のX線結晶学の発展の基礎をつくった。特に重要な研究は,S.アレニウスのイオン化理論を発展させたデバイ=ヒュッケルの理論の導出 (23) である。さらに気体の光散乱の研究もある。物質の構造を知るうえで重要なこれらの研究により,36年ノーベル化学賞を受賞した。

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