理論物理学者、科学啓蒙(けいもう)家。名は「じゅん」とも称す。東京生まれ。1906年(明治39)東京帝国大学理科大学物理学科を卒業し、1911年東北帝国大学理科大学設立に際し、長岡半太郎の推薦により助教授に就任した。翌1912年3月から1914年(大正3)4月までヨーロッパに留学、主としてドイツのミュンヘン大学でゾンマーフェルトに学び、彼の弟子ラウエと親交を結び、またチューリヒ工科大学ではアインシュタインとも親交を結んだ。帰国して東北帝国大学教授となった。1909年から約10年間に理論物理学の論文40編以上を発表し、1919年には相対性理論および量子論の研究により帝国学士院恩賜賞を受賞した。
1909年東京数学物理学会常会で発表された彼の論文『相対論に基づく運動物体内の光学現象の研究』は、水野敏之丞(としのじょう)の論文とともに日本最初の相対性理論の論文で1912年ドイツ留学直前に、シュタルク主幹の雑誌『Jahrbuch der Radioaktivität und Elektronik』に送った相対性理論研究の総説では、180編に及ぶ論文に言及しており、この点からも日本最初の本格的な理論物理学者といえる。1922年アインシュタインの招聘(しょうへい)に尽力し、彼が来日した際には通訳を務め、これを機に相対性理論の普及に努め『アインシュタイン全集』全4巻(改造社)の刊行に努力した。
一方、アララギ派の歌人としても知られる。1904年に伊藤左千夫(さちお)に師事し、『アララギ』創刊に参画。1922年刊の歌集『靉日(あいじつ)』には、「あるぷすの深山奥(ふかやまおく)に/我れを待つ/孤(ひと)つの家のありと思へや」のようなドイツ時代の佳作を多く収める。1924年には『日光』に参加し、自由律短歌の論作両面の推進者となった。しかし、女流歌人原阿佐緒(あさお)との交遊が大学教授としてふさわしくないとして大学を追われた。1921年岩波書店の嘱託となり、雑誌『科学』『理化学辞典』の編集責任者を務め、優れた科学ジャーナリストとしての見識を振るった。科学思想分野でも多く発言し、第二次世界大戦中は自由主義者としてファシズムに抵抗。戦後、東京・千駄ヶ谷(せんだがや)で自動車事故で倒れているのを発見され、それがもとで脳出血により死去した。
[井原 聰]
じゅんは通称で,正しくはあつしという。理論物理学者,科学啓蒙家,歌人。東京の生れ。1906年東京帝国大学理論物理学科卒業。在学中長岡半太郎,本多光太郎らに学び同大学院に進む。この間早稲田大学で教鞭をとる一方,雑誌《理学界》に欧米自然科学の状況を精力的に紹介した。08年陸軍砲工学校教官,11年新設の東北帝国大学に長岡の推薦で助教授として就任,12年3月から14年4月までドイツなどへ留学。この間ミュンヘンでA.ゾンマーフェルトに学び,その助手M.vonラウエと,また13年チューリヒ工科大でA.アインシュタインとも親交を結び,帰国後東北帝大教授となる。
20世紀初頭,ミクロな物質の運動に由来する諸現象の発見が相次ぎ,相対性理論や量子論がようやく論議の数を増したいわゆる物理学革命の時代に,いちはやく相対論に基づく運動物体内の光学現象を研究(1909)するなど,当時の物理学の最先端にいたといえる。また,留学直前にはドイツの雑誌に180余編の文献注を付した相対論の総説を投稿し,以来約10年間に相対論,金属電子論,重力理論,光量子仮説,水素スペクトル理論,X線スペクトル理論などに関する約40編の国際的水準に達する論文を発表,日本における最初の本格的理論物理学者であった。19年,相対論,重力理論および量子論の研究で学士院恩賜賞受賞。
一方,アララギ派の歌人としても活躍したが,女流歌人原阿佐緒との恋愛問題で大学を辞職,21年岩波書店の嘱託となり,のち雑誌《科学》や《理化学辞典》の編集責任者となった。22年来日したアインシュタインの通訳を務め,《アインシュタイン全集》(改造社)の刊行に尽力,また21年岩波書店から優れた相対論の解説書《相対性原理》や《エーテルと相対性原理の話》などを出版し,相対論の普及,自然科学の啓蒙に尽くした。自由主義者としてファシズムに激しく抵抗し,言論弾圧を受けた岡邦雄らを援助し科学思想分野でも多くを発言したが,その姿勢を最後まで貫きえない面も残した。終戦直後アメリカ軍のジープにはねられたのがもとで脳内出血で死亡した。
執筆者:井原 聡
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明治〜昭和期の理論物理学者,歌人
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1881.1.15~1947.1.19
明治~昭和期の物理学者・歌人。東京都出身。東大卒。1911年(明治44)東北帝国大学助教授。ヨーロッパに留学してアインシュタインらに学び,相対性理論と量子論を研究。アララギ派の歌人としても知られたが,歌人原阿佐緒との恋愛事件で大学を退き,以後は著作活動に専念。「アインシュタイン全集」を刊行。31年(昭和6)から雑誌「科学」の編集長。学士院恩賜賞受賞。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…東京逓信病院院長,前橋医学専門学校校長などに就いたが,戦後は静岡県河津町で開業のかたわら,近視眼予防のための仮名文字の研究を続けた。物理学者石原純は弟にあたる。【長門谷 洋治】。…
…じゅんは通称で,正しくはあつしという。理論物理学者,科学啓蒙家,歌人。東京の生れ。1906年東京帝国大学理論物理学科卒業。在学中長岡半太郎,本多光太郎らに学び同大学院に進む。この間早稲田大学で教鞭をとる一方,雑誌《理学界》に欧米自然科学の状況を精力的に紹介した。08年陸軍砲工学校教官,11年新設の東北帝国大学に長岡の推薦で助教授として就任,12年3月から14年4月までドイツなどへ留学。この間ミュンヘンでA.ゾンマーフェルトに学び,その助手M.vonラウエと,また13年チューリヒ工科大でA.アインシュタインとも親交を結び,帰国後東北帝大教授となる。…
…そのことから定型を破壊して自由律によろうとする動きが,大正末期からあらわれた。石原純,土田杏村らがその主導者で,口語定型を守持するものらとの論争がしばしばおこなわれた。しかし1932‐33年(昭和7‐8)ころに口語歌運動では定型派のすべてが敗退し,自由律派のみとなった。…
※「石原純」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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