石原純(読み)イシハラジュン

デジタル大辞泉 「石原純」の意味・読み・例文・類語

いしはら‐じゅん【石原純】

[1881~1947]理論物理学者・歌人。東京の生まれ。東北大教授。特殊相対性理論量子論を研究。著「自然科学概論」、アララギ派の歌人として歌集靉日あいじつ」など。名は「あつし」とも。

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精選版 日本国語大辞典 「石原純」の意味・読み・例文・類語

いしはら‐じゅん【石原純】

  1. 理論物理学者、歌人。名は「あつし」とも。量子論、相対性理論の研究者。アララギ派の歌人として、歌集「靉日(あいじつ)」がある。明治一四~昭和二二年(一八八一‐一九四七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石原純」の意味・わかりやすい解説

石原純(いしはらあつし)
いしはらあつし
(1881―1947)

理論物理学者、科学啓蒙(けいもう)家。名は「じゅん」とも称す。東京生まれ。1906年(明治39)東京帝国大学理科大学物理学科を卒業し、1911年東北帝国大学理科大学設立に際し、長岡半太郎の推薦により助教授に就任した。翌1912年3月から1914年(大正3)4月までヨーロッパに留学、主としてドイツミュンヘン大学ゾンマーフェルトに学び、彼の弟子ラウエと親交を結び、またチューリヒ工科大学ではアインシュタインとも親交を結んだ。帰国して東北帝国大学教授となった。1909年から約10年間に理論物理学の論文40編以上を発表し、1919年には相対性理論および量子論の研究により帝国学士院恩賜賞を受賞した。

 1909年東京数学物理学会常会で発表された彼の論文『相対論に基づく運動物体内の光学現象の研究』は、水野敏之丞(としのじょう)の論文とともに日本最初の相対性理論の論文で1912年ドイツ留学直前に、シュタルク主幹の雑誌『Jahrbuch der Radioaktivität und Elektronik』に送った相対性理論研究の総説では、180編に及ぶ論文に言及しており、この点からも日本最初の本格的な理論物理学者といえる。1922年アインシュタインの招聘(しょうへい)に尽力し、彼が来日した際には通訳を務め、これを機に相対性理論の普及に努め『アインシュタイン全集』全4巻(改造社)の刊行に努力した。

 一方、アララギ派の歌人としても知られる。1904年に伊藤左千夫(さちお)に師事し、『アララギ』創刊に参画。1922年刊の歌集『靉日(あいじつ)』には、「あるぷすの深山奥(ふかやまおく)に/我れを待つ/孤(ひと)つの家のありと思へや」のようなドイツ時代の佳作を多く収める。1924年には『日光』に参加し、自由律短歌の論作両面の推進者となった。しかし、女流歌人原阿佐緒(あさお)との交遊が大学教授としてふさわしくないとして大学を追われた。1921年岩波書店の嘱託となり、雑誌『科学』『理化学辞典』の編集責任者を務め、優れた科学ジャーナリストとしての見識を振るった。科学思想分野でも多く発言し、第二次世界大戦中は自由主義者としてファシズムに抵抗。戦後、東京・千駄ヶ谷(せんだがや)で自動車事故で倒れているのを発見され、それがもとで脳出血により死去した。

[井原 聰]


石原純(いしはらじゅん)
いしはらじゅん

石原純


石原純(いしわらじゅん)
いしわらじゅん

石原純

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改訂新版 世界大百科事典 「石原純」の意味・わかりやすい解説

石原純 (いしはらじゅん)
生没年:1881-1947(明治14-昭和22)

じゅんは通称で,正しくはあつしという。理論物理学者,科学啓蒙家,歌人。東京の生れ。1906年東京帝国大学理論物理学科卒業。在学中長岡半太郎,本多光太郎らに学び同大学院に進む。この間早稲田大学で教鞭をとる一方,雑誌《理学界》に欧米自然科学の状況を精力的に紹介した。08年陸軍砲工学校教官,11年新設の東北帝国大学に長岡の推薦で助教授として就任,12年3月から14年4月までドイツなどへ留学。この間ミュンヘンでA.ゾンマーフェルトに学び,その助手M.vonラウエと,また13年チューリヒ工科大でA.アインシュタインとも親交を結び,帰国後東北帝大教授となる。

 20世紀初頭,ミクロな物質の運動に由来する諸現象の発見が相次ぎ,相対性理論や量子論がようやく論議の数を増したいわゆる物理学革命の時代に,いちはやく相対論に基づく運動物体内の光学現象を研究(1909)するなど,当時の物理学の最先端にいたといえる。また,留学直前にはドイツの雑誌に180余編の文献注を付した相対論の総説を投稿し,以来約10年間に相対論,金属電子論,重力理論,光量子仮説,水素スペクトル理論,X線スペクトル理論などに関する約40編の国際的水準に達する論文を発表,日本における最初の本格的理論物理学者であった。19年,相対論,重力理論および量子論の研究で学士院恩賜賞受賞。

 一方,アララギ派の歌人としても活躍したが,女流歌人原阿佐緒との恋愛問題で大学を辞職,21年岩波書店の嘱託となり,のち雑誌《科学》や《理化学辞典》の編集責任者となった。22年来日したアインシュタインの通訳を務め,《アインシュタイン全集》(改造社)の刊行に尽力,また21年岩波書店から優れた相対論の解説書《相対性原理》や《エーテルと相対性原理の話》などを出版し,相対論の普及,自然科学の啓蒙に尽くした。自由主義者としてファシズムに激しく抵抗し,言論弾圧を受けた岡邦雄らを援助し科学思想分野でも多くを発言したが,その姿勢を最後まで貫きえない面も残した。終戦直後アメリカ軍のジープにはねられたのがもとで脳内出血で死亡した。
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20世紀日本人名事典 「石原純」の解説

石原 純
イシハラ ジュン

明治〜昭和期の理論物理学者,歌人



生年
明治14(1881)年1月15日

没年
昭和22(1947)年1月19日

出生地
東京府本郷区(現・東京都文京区)

別名
歌名=石原 阿都志(イシハラ アツシ)

学歴〔年〕
東京帝大理科大学理論物理学科〔明治39年〕卒

学位〔年〕
理学博士〔大正5年〕

主な受賞名〔年〕
帝国学士院恩賜賞〔大正8年〕「相対性理論、万有引力論及び量子論の研究」

経歴
大学時代は理論物理学を専攻。明治36年「馬酔木」創刊を機に伊藤左千夫を訪ね、後に「アララギ」に参加。44年東北帝国大学助教授に就任。45年〜大正3年までヨーロッパ留学をし、なかでもアインシュタインに大きな刺激を受ける。大正3年帰国後東北帝大教授となる。現代物理学の理論的基礎や方法の啓蒙的解説も精力的に行う。10年歌人・原阿佐緒との恋愛事件により教授を辞任。以後、著作、啓蒙活動に専念。昭和7年岩波「科学」創刊とともに編集主任となる。大正11年歌集「靉日」(あいじつ)を刊行、都会感覚と科学者としての詩情で注目された。昭和2年「渦状星雲」を創刊したのをはじめ、9年「立像」を創刊、「立像」は後に「新短歌」と改組された。歌論でも「新短歌概論」などを執筆、科学者としても「自然科学概論」「現代物理学」「アインスタインと相対性原理」「相対性原理」などの著書があり、「アインスタイン全集」(全4巻)もまとめた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石原純」の意味・わかりやすい解説

石原純
いしはらじゅん

[生]1881.1.15. 東京
[没]1947.1.19. 千葉
理論物理学者,歌人。 1906年東京帝国大学理科大学物理学科卒業。東北帝国大学助教授 (1911) ,ドイツとスイスに留学,A.ゾンマーフェルトに師事。東北帝国大学教授 (14) 。相対性理論と量子論について日本における先駆的研究を行い,1919年帝国学士院恩賜賞受賞。のちに,歌人原阿佐緒との恋愛事件のため大学を辞した (21) 。以後,著作活動や雑誌『科学』などを通して,物理学を中心とする自然科学の普及に大きく貢献した。歌人 (歌名は阿都志) としては子規に共鳴して『アララギ』に属したが,のち『日光』の創刊 (24) に参加して反アララギ派の態度を鮮明にし,自由律の口語歌に走った。歌集『靉日 (あいじつ) 』 (22) はアララギ時代の最後の歌風を示すものであるが,改行などの新しい形式も試みられている。晩年は実作者としてよりも理論家として知られた。

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百科事典マイペディア 「石原純」の意味・わかりやすい解説

石原純【いしはらじゅん】

物理学者,歌人。東京生れ。医学者石原忍の弟。東大を出て1914年東北大教授。万有引力論,量子論に関する業績で1917年帝国学士院恩賜賞。歌人原阿佐緒との恋愛事件から1921年東北大を退職,以後科学の啓蒙活動に専心,岩波書店で雑誌《科学》,《理化学辞典》などの編集を主宰。またアララギ派の歌人として新形式短歌を唱道。
→関連項目自由律

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石原純」の解説

石原純 いしはら-じゅん

1881-1947 明治-昭和時代の物理学者,歌人。
明治14年1月15日生まれ。石原忍(しのぶ)の弟。石原謙の兄。大正3年東北帝大教授となる。8年相対性理論,量子論の研究で学士院恩賜賞。10年原阿佐緒(あさお)との恋愛問題で辞職。のち岩波書店の雑誌「科学」,「理化学辞典」の編集責任者をつとめる。また歌人として新短歌運動を推進した。昭和22年1月19日死去。67歳。東京出身。東京帝大卒。
【格言など】涯なきこほりのうへを 橇(そり)ひきて馬がゆきにけり真はだかの馬が(「靉日(あいじつ)」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石原純」の解説

石原純
いしはらじゅん

1881.1.15~1947.1.19

明治~昭和期の物理学者・歌人。東京都出身。東大卒。1911年(明治44)東北帝国大学助教授。ヨーロッパに留学してアインシュタインらに学び,相対性理論と量子論を研究。アララギ派の歌人としても知られたが,歌人原阿佐緒との恋愛事件で大学を退き,以後は著作活動に専念。「アインシュタイン全集」を刊行。31年(昭和6)から雑誌「科学」の編集長。学士院恩賜賞受賞。

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367日誕生日大事典 「石原純」の解説

石原 純 (いしはら じゅん)

生年月日:1881年1月15日
明治時代-昭和時代の物理学者;科学思想家。岩波書店顧問
1947年没

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世界大百科事典(旧版)内の石原純の言及

【石原忍】より

…東京逓信病院院長,前橋医学専門学校校長などに就いたが,戦後は静岡県河津町で開業のかたわら,近視眼予防のための仮名文字の研究を続けた。物理学者石原純は弟にあたる。【長門谷 洋治】。…

【石原純】より

…じゅんは通称で,正しくはあつしという。理論物理学者,科学啓蒙家,歌人。東京の生れ。1906年東京帝国大学理論物理学科卒業。在学中長岡半太郎,本多光太郎らに学び同大学院に進む。この間早稲田大学で教鞭をとる一方,雑誌《理学界》に欧米自然科学の状況を精力的に紹介した。08年陸軍砲工学校教官,11年新設の東北帝国大学に長岡の推薦で助教授として就任,12年3月から14年4月までドイツなどへ留学。この間ミュンヘンでA.ゾンマーフェルトに学び,その助手M.vonラウエと,また13年チューリヒ工科大でA.アインシュタインとも親交を結び,帰国後東北帝大教授となる。…

【自由律】より

…そのことから定型を破壊して自由律によろうとする動きが,大正末期からあらわれた。石原純,土田杏村らがその主導者で,口語定型を守持するものらとの論争がしばしばおこなわれた。しかし1932‐33年(昭和7‐8)ころに口語歌運動では定型派のすべてが敗退し,自由律派のみとなった。…

※「石原純」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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