ドイツの理論物理学者。ミクロの世界を支配する根本法則である量子力学の創始者。アインシュタイン以後の代表的理論物理学者として、物理学のみならず思想界にも大きな影響を与えた。1932年のノーベル物理学賞を、量子力学の創始(とくにオルト、パラ水素の発見)により、翌1933年に受賞。
1901年12月5日ウュルツブルクに生まれる。中・近世ギリシア語(ビザンティン)学者でミュンヘン大学教授となった父を中心に恵まれた家庭で成長、9歳以後はミュンヘンに住み、学校時代は神童の誉れ高く、とくに数学を得意とした。そこでミュンヘン大学で数学を学びたいと思ったが、数学教授にすでに「汚れすぎている」といわれて断念、ゾンマーフェルトの下で理論物理学を学ぶこととなる。彼の尋常でない才能を見抜いたゾンマーフェルトは、大学入学と同時に、当時の第一線の研究テーマを与え、半年後には最初の学術論文を発表する。2年目にはボーアの連続講義をゲッティンゲン大学で聞き、鋭い質問がボーアの注目するところとなり、二人の師弟、親友としての交際の端緒となった。ゾンマーフェルトはハイゼンベルクに対して古典的な物理学を学ばせることを忘れず、1923年の学位論文は「流体の乱流」に関するもので、高く評価された。その年、ゲッティンゲンのボルンの助手になる。ボルンのゾンマーフェルトにあてた手紙には「……私はハイゼンベルクがすっかり気に入ってしまいました。彼は当地のみんなの人気と羨望(せんぼう)の的です。前代未聞ともいうべき才能の持ち主であることもさることながら、うれしく思うのは彼の感じのいい謙虚なひととなりです。いつも上機嫌で熱意にあふれ、豊かな感受性をもっています……」と書かれている。1924年ボルンの下で大学教官資格を取得し、1925年にかけての半年間、あこがれのコペンハーゲンのボーアの下へ留学、もっとも充実した研究生活を送った。
1925年夏、枯草熱(こそうねつ)の療養のためヘルゴラント島に転地していて、量子力学建設のための決定的なひらめきを得た。晩年、彼は妻にそのときのことを「私は神のみ業(わざ)を、その肩越しにかいまみることを許されるという、大きな幸運に恵まれた」と語ったという。彼が23歳のときのことである。その後、ボルンとヨルダンの協力を得て、行列形式による量子力学を完成させる。アインシュタインとの討論からヒントを得て、1927年いわゆる「不確定性原理」を提唱し、量子力学のコペンハーゲン解釈を確立させる。同年ライプツィヒ大学の教授となり、ブロック、ベーテらのノーベル賞受賞者を含む多数の弟子を育て、ライプツィヒをコペンハーゲンと並ぶ物理学のメッカとした。
1929年、彼はディラックとともにアメリカ、日本、インドなどを講演旅行し、大学を卒業したばかりの湯川秀樹(ひでき)、朝永振一郎(ともながしんいちろう)ら若い物理学者に大きな刺激を与えた。量子力学以後も世界をリードする大きな仕事を相次いで発表、その代表的なものに、「強磁性体の理論」(1928)、「場の量子論」(1929)、「原子核構造論」(1932)、「S行列の理論」(1943)、「中間子多重発生の理論」(1949)などがある。晩年の20年間は「素粒子の統一場の理論」の建設に意欲を燃やしたが、未完成で世を去った。
第二次世界大戦中はドイツのウラン計画の実質的な指導者になったが、ヒトラーのために原爆をつくることになるのを恐れ、小規模な原子炉の研究にとどめた。戦後ドイツ科学の再建に尽力し、1946年から1970年までマックス・プランク物理学研究所所長を務めた。また若い学者の国際交流を重視し、1953年から終生、フンボルト財団総裁の任にあり、1957年には18人のドイツ人核物理学者とともにドイツ国防軍の核武装に反対する「ゲッティンゲン宣言」の主導者となる。1967年(昭和42)二度目の来日をした。ピアノ、スキー、登山、卓球などすべてに徹底した練習で熟達、これらが集中力を必要とする仕事の気分転換に役だった。1976年2月1日ミュンヘンの自宅で死去した。
[山崎和夫]
『W・ハイゼンベルク著、山崎和夫訳『部分と全体』(1974/新装版・1999・みすず書房)』▽『A・ヘルマン著、山崎和夫・内藤道雄訳『ハイゼンベルクの思想と生涯』(1977・講談社)』▽『E・ハイゼンベルク著、山崎和夫訳・編『ハイゼンベルクの追憶』(1984・みすず書房)』
ドイツの理論物理学者。量子力学の創始者。ビュルツブルクの生れ。ミュンヘン大学のA.J.ゾンマーフェルトの下で理論物理学を学び,流体の乱流に関する論文で学位を取得,ゲッティンゲンのM.ボルンの助手を務めた後,半年間コペンハーゲンのN.ボーアの下へ留学し,もっとも充実した研究生活を送った。後日,彼は〈ゾンマーフェルトの下では楽天主義を,ゲッティンゲンでは数学を,そしてボーアの下で物理学を学んだ〉と述懐している。1925年,再びボルンの下で仕事中,花粉症を患い,ヘルゴラント島へ転地療養,そこで量子力学への決定的な端緒となった〈原理的に観測可能な量の間の関係のみを問題にすべきこと〉という発想を,明確な形に成就させて,歴史的論文《運動学的かつ力学的関係の量子論的解釈変更について》を発表した。以後,ボルン,E.P.ヨルダンとともに行列形式による量子力学(マトリックス力学)を完成させ,さらに27年いわゆる不確定性原理を提唱して,ボーアの相補性原理とともに量子力学のコペンハーゲン解釈を確立した。同年25歳の若さでライプチヒ大学の正教授となり,28年には強磁性体の量子論によって近代的な固体物理学の一つの端緒を開いた。29年W.パウリと共同で量子電気力学(波動場の量子論)を建設。32年に中性子が発見されると,直ちに陽子,中性子からなる原子核構造論を発表し,またアイソスピンの概念を導入した。同年ノーベル物理学賞を量子力学の創始者として受賞。彼の影響の下,ライプチヒは,ナチスによるユダヤ人追放が行われるころまで,コペンハーゲンと並ぶ近代物理学のメッカとなり,ここからH.ベーテ,F.ブロッホら多数の俊秀を輩出している。なお,1929年世界一周講演旅行の途上,東京,京都などでも講演を行い,大学を卒業したばかりの湯川秀樹,朝永振一郎ら日本の新進の物理学者に大きな刺激を与えた。
第2次世界大戦中は原子炉の雛形を作る研究を行うかたわら,以後の素粒子論の発展に大きな役割を果たしたS行列の理論を展開,42年以後はカイザー・ウィルヘルム研究所(戦後のマックス・プランク研究所)所長を務めた。とくに第2次大戦後は国際協力に熱意をもち,CERN(セルン)の建設に尽力,また若い科学者の国際交流を目的とするフンボルト財団の総裁を終生22年間にわたって務めた。このほか,戦後の一時期ドイツ研究協議会の総裁を引き受けて学術行政策の改革に努力し,また西ドイツ国防軍の核武装に反対するゲッティンゲン宣言の世話役を務めている。戦後の研究には超伝導の理論,乱流の理論,中間子の多重発生の理論および畢生(ひつせい)の仕事となった未完の素粒子の非線形場統一理論がある。物理学と哲学に関する著書も多く,なかでも思想的自伝《部分と全体》(1969)は広く一般の知識人に読まれている。
執筆者:山崎 和夫
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1901~76
ドイツの理論物理学者。1925年新しい量子力学の先駆的論文を発表,今日マトリックス力学として知られている。また「不確定性原理」を定立,科学哲学上の貢献も大きい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…原子核は最初A個の陽子とN個の電子とから構成されると考えられたが,これには,電子のように軽い粒子を小さな領域に閉じ込めるのは困難であること,知られていた原子核のスピンがこの模型では説明できないことなどの難点があった。これを一挙に解決したのが32年のJ.チャドウィックによる中性子の発見で,これに基づいて,W.K.ハイゼンベルクとソ連のイワネンコDmitrij Dmitrievich Ivanenkoはそれぞれ独立に,陽子と中性子とから構成されるという原子核の描像を確立した。原子核の構成が明らかになると,次に問題になるのは構成粒子である陽子と中性子(両者を総称して核子と呼ぶ)を小さな領域に閉じ込めておく力は何かということになる。…
…しかし,α線がヘリウムの原子核の流れであることが明らかにされるまでには時間がかかった。正の電荷を帯びた原子核のまわりを負の電荷をもつ電子がまわっているというラザフォードの原子模型が発表されたのは1911年であり,陽子と電子が一体となって結合した中性子が存在することがJ.チャドウィックにより明らかにされ,W.ハイゼンベルクにより原子核がその中性子と陽子とで構成されていることが理論的に証明されたのは1932年である。 一方,放射能が同時にエネルギーを伴うことにもキュリー夫妻は気がついていた。…
…量子力学が誕生する前,1907年にP.ワイスは,個々の磁気モーメントに分子磁場と呼ぶ,その物質がもつ磁化に比例する磁場が働くとして,強磁性を説明することに成功した。しかし,その分子磁場が何に由来するかは28年のW.ハイゼンベルクの論文に待たねばならなかった。ハイゼンベルクは今日もなお,原子に局在する電子が磁性を担う系に対して用いられるハイゼンベルク模型を提案し,分子磁場が交換相互作用に由来することを明らかにした。…
…この相互作用は交換相互作用と呼ばれ,電子のスピンによる磁気モーメントの間に働く力である。W.K.ハイゼンベルクは,1928年の論文で初めて局在電子系での交換相互作用(ハイゼンベルク型交換相互作用)を導いたが,これはワイスの分子場の起源を与えるとともに,その後の局在電子系の磁性の大きな展開の始まりとなった。その後局在電子系である遷移金属,または希土類金属を含む化合物で,実際に働いているハイゼンベルク型交換相互作用はハイゼンベルクが考えたものよりもっと複雑なものであることがわかり,反強磁性およびフェリ磁性などの存在も明らかになった。…
…すなわち,1932年にJ.チャドウィックは,α線をベリリウムにあてると,水素原子とたいへん強く相互作用をする,電気的に中性で陽子とほとんど同じ質量をもつスピン1/2の粒子が出てくることを発見した。同年W.ハイゼンベルクとソ連のD.D.イバネンコはそれぞれ独立に,原子核が陽子Z個とこの中性の粒子,すなわち中性子A-Z個とからできているとの考えを提唱した。こう考えると窒素の原子核は7個の陽子と7個の中性子からなり,スピンの困難も解決できるし,また電子は原子核の構成要素ではなくなるので,不確定性原理に基づく電子の困難も解決できる。…
…これにより光の放出,吸収が量子論的に扱えるようになる。1929年W.K.ハイゼンベルクとW.パウリは場の量子化に正面から取り組んだ。彼らは空間を格子状とし,自由度が有限の質点系でおきかえ,その量子力学の連続極限を考えた。…
…行列力学ともいう。原子内の電子を記述する力学として,W.K.ハイゼンベルクが1925年に提唱したもので,古典力学から脱却し,量子力学の端緒となったものである。ハイゼンベルクによると,電子の位置を表す変数などすべての物理量は単なる数値ではなく,行列(マトリックス)で表されなければならない。…
…強度も偏りも同様である。W.ハイゼンベルクは,古典的な量を二つの添字をもつ量の集り{An,n′}でおきかえるという方針で,対応原理を押し進め,《運動学的および力学的関係の量子論的解釈変更について》と題する論文(1925)を書いた。ここでは電子の座標も二つの添字をもつ複素数となり,その絶対値の2乗によって光の強度をあたえるという役はするが,もはや軌道運動は記述しない。…
※「ハイゼンベルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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