フランスの物理学者、天文学者。エスタジェルに生まれる。1803年エコール・ポリテクニク(理工科大学校)に入学し、2年後には経度局の一員として、J・B・ビオとともにスペインへ測量に派遣された。1809年、パリに戻った彼は、ナポレオン政権下のフランス科学の中心であったアルクイユ学会に参加し、P・G・モンジュの後任としてエコール・ポリテクニクの教授となった。また1813年から1846年までパリ天文台で天文学の通俗講義を行ったほか1816年から1840年までゲイ・リュサックとともに『化学・物理学年報』を編集した。1830年から科学アカデミーの会長を務めたほか、1830年の七月革命後は政治の分野でも活躍し、下院議員として教育改革、出版の自由、科学の技術への応用などに熱弁を振るった。1848年の二月革命後は臨時政府の陸海軍大臣などにも任ぜられた。晩年は視力を失い、パリで没した。
薄いガラス板の色についてのT・ヤングの論文や、E・L・マリュスの偏光の発見に刺激されて、偏光した光線をさまざまな角度で気体や結晶に入射させて光の性質を調べるという実験を繰り返した。その過程で、1811年に色偏光を、1812年に回転偏光を発見し、光の波動説の有効性にも着目し始めた。また液体や固体中での光の屈折を研究する過程で、当時支配的であった光の粒子説の不十分さに気づき、やがてフレネルとともに波動説を弁護する一連の論文を発表し、波動説の確立、受容に貢献した。彼が1838年に提案した光の波動説と粒子説の決定実験は、空気中と水中とでの光速度を比較するというもので、1850年フーコーにより実行され、光の波動説を確証する結果が得られた。電磁気学の分野でも、1820年に電流の磁気作用についてのエールステッドの実験を知ってから精力的に研究を行い、同年に電流による鉄の磁化を発見、1824年には「アラゴの円板」とよばれる、電磁誘導の一つである渦電流によって生じる現象を発見した。後者の功績により、1825年イギリスのロイヤル・ソサイエティーからコプリー・メダルを授けられた。
[杉山滋郎]
フランス,ピレネー山脈山麓,トータベルTautavel村の近くにある洞窟の名称であり,1964年以来,ドゥ・リュムレーH.de Lumley(夫)とドゥ・リュムレーM.A.de Lumley(妻)によって調査が継続され,この遺跡および発掘された人骨の名称となった。1979年に発見された頭骨(Arago 21)の顔面は,ホモ・エレクトスとホモ・ネアンデルタレンシスの中間的な特徴を示す。頭蓋腔容積(脳容積より10%ほど大きい)は1150mlと推定されている。また,寛骨(骨盤の一部。Arago 44)は男性のものと思われ,極めて広く頑丈で,ホモ・エレクトスあるいはホモ・ハイデルベルゲンシスの特徴と一致する。したがって,アラゴ人骨はホモ・ハイデルベルゲンシスに属すると見なすのが妥当であろう。年代は,最近のウラン系列法による推定では35万年前と報告されている。石器はタヤック文化(タヤク文化)と呼ばれる原始的なもので,チョッパーや剥片を含む。
→ホモ・ハイデルベルゲンシス
執筆者:馬場 悠男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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