日本大百科全書(ニッポニカ) 「チリ人民連合」の意味・わかりやすい解説
チリ人民連合
ちりじんみんれんごう
Unidad Popular de Chile
チリのアジェンデ政権(1970~73)の支持母体となった政党連合。1969年12月に左翼の社会党と共産党を中心に中道左派の急進党、社会民主党、人民統一行動運動、人民独立行動が加わり結成された。アジェンデ政権成立後の71年末にキリスト教民主党の分派のキリスト教左派が加盟した。結成直前に六加盟政党により合意された基本綱領では、チリの最大の問題である貧困と低開発は社会主義のもとでのみ解決できるとしたうえで、この社会主義を議会制下で実現していくことをうたっていた。そのためアジェンデ政権は、大地主制など封建遺制が残存し対外従属関係に取り込まれた発展途上国で、ユーロコミュニズムという先進資本主義国の課題をどのようにして実現するかという歴史的実験に取り組むことになり、世界の注目を浴びた。
しかしアジェンデ政権は、綱領では、一握りの大地主や大企業家を除く90%の国民の利益を代表する過渡期の「人民政府」と規定されていた。この過渡期においては福祉政策の拡充など国民生活の向上のほか、土地改革、外国企業その他大企業の国有化などを実施し、国有企業と中小の民間企業との共存共栄を図る「混合経済体制」を打ち立てることとされていた。しかし、綱領では、この「反帝・反寡頭制段階」と基本綱領が掲げる最終目標である社会主義段階との関係があいまいであり、アジェンデ政権発足後、社会主義への移行形態をめぐって内部論争が起こった。もともと選挙路線に反対であった社会党の主流派である左派は「反帝・反寡頭制」革命と社会主義革命の同時実現を主張し、企業の大幅国有化、人民権力の早期確立などを訴えた。これに対し二段階革命論の立場をとる共産党は、国有化や土地改革に歯止めをかけ中間層の支持を獲得して政権の基盤強化を図ることを重視した。この対立は、アジェンデ政権末期に保守派の巻き返しにより経済情勢が悪化するに及んでいっそう激しくなった。社会党左派などは保守派の経済的基盤を弱体化させるべきだとして極左の左翼革命運動(MIR)とともに工場や土地の占拠に走り、経済回復のため保守派との妥協も辞すべきではないとするアジェンデ大統領や共産党と対立した。このため反政府勢力の政治的経済的揺さぶりに対し人民連合は有効な統一した政策を打ち出せず、それが73年9月の反政府軍事クーデター成功の要因の一つとなった。
クーデター後、人民連合派に対する追求はきわめて激しく、その指導的人物は根こそぎ逮捕され、拷問された。クーデター直後だけでも軍の発砲や拷問による死者は3000から3万人、逮捕者は数万人に達した。また政治亡命者のほか、人民連合派であるため解雇され職を求めて海外に脱出した人は100万人に上り、国内では人民連合は事実上解体した。
また1975年のアメリカ上院特別委員会報告などでも明らかになったように、クーデター工作は、アメリカ国務省やCIA、さらにITTなどの大企業が一体となって立案し実行したものであり、内政干渉問題としてアメリカに国際的非難が集中した。アメリカによるチリ介入は、基本的には、人民連合政府の成功によって「議会制下の社会主義建設」という「チリの実験」が他のラテンアメリカ諸国をはじめ世界に波及することを恐れたためであり、クーデター後のチリ軍部による歴史上あまり例をみない左翼弾圧、自由や人権の制限などもその意図に沿ったものである。
[後藤政子]
『J・ガルセス著、後藤政子訳『アジェンデと人民連合』(1979・時事通信社)』▽『人民戦線史編集委員会訳『チリ人民連合』(1971・新日本出版社)』