ユーロコミュニズム(読み)ゆーろこみゅにずむ(英語表記)Eurocommunism

翻訳|Eurocommunism

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユーロコミュニズム」の意味・わかりやすい解説

ユーロコミュニズム
ゆーろこみゅにずむ
Eurocommunism

1970年代に、主として西欧諸国の共産党、とくにイタリア共産党フランス共産党スペイン共産党が採用した、ソ連型の伝統的あり方とは異なった共産主義運動の革命路線・政策・活動スタイル・思考様式の総称。

 ユーロコミュニズムということば自体は、もともとジャーナリズム用語で、1975年7月のイタリア共産党書記長ベルリングエルとスペイン共産党書記長カリリョの会談を報じた、イタリアの有力紙『スタンパ』のレビ編集長の命名といわれる。ユーロコミュニズムの路線をとった共産党は、イタリア、フランス、スペイン共産党が代表的であるが、イギリス、スウェーデンベルギーデンマーク、日本、オーストラリアなどの各共産党も基本的に同様の方向をとった。この意味で、ユーロコミュニズムは、1989年東欧革命、91年ソ連解体でコミュニズムの総体が崩壊する以前の、国際労働運動・共産主義運動内の一つの潮流であった。

 ユーロコミュニズムの政治路線・革命路線の特徴は、社会主義へのナショナルで民主主義的な道の主張であり、自由・民主主義と両立可能な、民主主義的で多元主義的な社会主義を展望した。ユーロコミュニズムは、1956年のソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判に起源をもち、それはまずイタリア共産党における「社会主義へのイタリアの道」の定式化により開始された。そこでは、ソ連の社会主義建設過程でのスターリン主義的抑圧が、単にスターリン個人の誤りや個人崇拝に起因するものではなく、政治的・社会的諸制度の誤りであったことが述べられ、イタリアにおける社会主義への変革過程は、ソ連がたどった道をモデルにしたり模倣したりするのではなく、反ファシズム闘争の所産であるイタリア共和国憲法を順守した、民主主義的方法による社会構造の改良であることが明示されていた。それまでの国際共産主義運動は、世界で初めて社会主義革命を達成したソ連共産党が名実ともに指導権を専守しており、他の社会主義国の指導者交代に介入したり、資本主義国の共産党の政治路線策定に干渉したりすることもしばしば行われていた。しかし、中ソ論争、チェコスロバキアプラハの春」とワルシャワ条約機構軍によるその干渉的圧殺(1968)などの事態は、スターリン時代の数々の抑圧の事実の歴史的検証の進行と、ソ連・東欧諸国での自由と民主主義の制限の実態が西欧諸国民の常識として定着している状態と相まって、西欧諸国共産党の「モスクワ離れ」、国際共産主義運動における多中心主義、自主独立の主張を生み出し、「プラハの春」圧殺に際しては多くの共産党がソ連批判を行い、ソ連型社会主義全体をも批判的に分析するようになった。また、「プラハの春」と同時期に勃発(ぼっぱつ)したパリの5月危機やイタリアの労働運動高揚の経験は、西欧先進国におけるソ連・東欧型とは異なる革命路線と政治指導の必要を各国共産党に痛感させた。さらに南米チリにおける人民連合政府の実験(1970~73)が、その敗北の経験を含めて、ソ連共産党第20回大会でも承認されていた国民多数に依拠しての選挙と議会を通じての社会主義への平和的移行の路線を具体化させることになった。

 こうして形成されたユーロコミュニズムは、平和革命の路線を、フランス共産党の社会党との「左翼連合」、イタリア共産党のキリスト教民主党を含む「歴史的妥協」、スペイン共産党のフランコ独裁打倒後の「モンクロア協定」参加、日本共産党の「民主連合政府」構想などのように、それぞれの国情にあわせて具体化していった。この過程で、すでにイタリア共産党では放棄されていた「プロレタリアートの独裁」という用語も、各国共産党により放棄ないし再定義された。「マルクス・レーニン主義」という用語も、後進国ロシアの革命過程から生まれスターリン時代に定式化されたものとして使われなくなった。ソ連・東欧型社会主義への批判は、社会主義像そのものを、現存社会主義を反面教師とした新しい構想に導いた。思想・言論・集会・結社・出版の自由など市民的自由と基本的人権の尊重はもとより、社会主義のもとでも複数政党制と民主的政権交代が認められるものとされ、「自主管理社会主義」「多元的社会主義」として諸個人の個性と社会の多元性が開花するものと規定された。

 しかし、1989年の東欧革命、91年ソ連解体は、ソ連・東欧型の現存社会主義を最終的に解体し、その政権を担ってきた共産主義政党を崩壊に導いた。ユーロコミュニズムをかかげてきた共産党も、イタリア共産党の左翼民主党への変身をはじめ、多くは共産主義そのものを放棄し、解散したり社会民主主義へと転換していった。

[加藤哲郎]

『E・ベルリングェル著、大津真作訳『先進国革命と歴史的妥協』(1977・合同出版)』『田口富久治著『先進国革命と多元的社会主義』(1978・大月書店)』『S・カリリョ著、高橋勝之・深沢安博訳『“ユーロコミュニズム”と国家』(1979・合同出版)』『加藤哲郎著『東欧革命と社会主義』(1990・花伝社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ユーロコミュニズム」の意味・わかりやすい解説

ユーロコミュニズム
Euro-communism

西ヨーロッパの共産主義運動。 1970年代にイタリア共産党をはじめフランス,スペイン共産党などがモスクワの指導を離れて自主路線をとる傾向が強まり,西欧型の共産主義として脚光を浴びた。ソ連ないし東欧型の共産主義でなく,議会制民主主義のもとでの共産主義を掲げている点に特徴があり「白い共産主義」ともいわれる。西ヨーロッパの共産主義はイタリア共産党が,すでに P.トリアッチ書記長時代から「社会主義への独自の道」を掲げていたが,72年 E.ベルリングエルの書記長就任後ますますその傾向を強めるにいたった。 73年 10月には画期的な「歴史的妥協」を打出し,キリスト教民主党とも連立政権を組むという柔軟な姿勢を示した。これによって 75年6月の地方選挙,76年6月の総選挙では着実に得票率を伸ばし,第一党のキリスト教民主党も共産党の協力なしでは政権維持が不可能なまでに発展した。これに加えて 72年6月社会党と共同政府綱領に調印した G.マルシェ書記長のフランス共産党も,76年2月の党大会で M.トレーズ書記長以来の親ソ的傾向を修正し,プロレタリア独裁を放棄し,モスクワ離れを表明した。このほか F.フランコ以後のスペインでも非合法を解除された共産党が S.カリリョ書記長のもとで独自路線を掲げ,ユーロコミュニズムは 76年6月東ベルリンで開かれたヨーロッパ共産党会議で認知されるにいたった。これが契機で微少勢力ながらイギリス,オランダ,アイスランドなどの共産党もモスクワ離れを表明するようになった。しかし,89年の東ヨーロッパにおける民主化革命と 91年末のソ連解体によって共産主義に対する幻滅感が西ヨーロッパ諸国にも浸透し,80年代に入って長期低迷状態に陥っていた各国共産党に決定的な打撃を与えることとなった。ユーロコミュニズムの先頭を切ったイタリア共産党も例外ではなく,91年2月の第 20回党大会で党名を左翼民主党 PDSへと変更を余儀なくされた。

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