バートン(読み)ばーとん(英語表記)Derek Harold Richard Barton

日本大百科全書(ニッポニカ) 「バートン」の意味・わかりやすい解説

バートン(Tim Burton)
ばーとん
Tim Burton
(1958― )

アメリカの映画監督。カリフォルニア州バーバンク生まれ。出身地は多くのメジャー映画会社がスタジオを構える場所として知られるが、彼の育った環境は何の変哲もないアメリカの郊外住宅地であり、そこで受けた強烈な疎外感が彼の人格形成および後に撮る作品の基調をなす。彼にとって郊外で育つことは、「歴史に対する感覚、文化に対する感覚、何かへの情熱に関する感覚のない場所で育つこと」を意味した。10代のバートンは、映画館やテレビで古今のホラー映画や『ゴジラ』などの怪獣映画を見ることに熱中。なかでも彼のヒーローは、ホラー映画俳優のビンセント・プライスVincent Price(1911―1993)であった。その一方で、劇映画の特殊効果としてのストップモーションアニメーション(人形などを静止画像で1こまずつ撮影し、映写することでそれらが動いているように見せる技術)の領域に革新をもたらしたレイ・ハリーハウゼンがかかわる一連の映画にあこがれ、友人と協力して稚拙ながらストップモーション・アニメーションを8ミリで撮影したり、学校での読書レポートのかわりに自作の短編映画を提出するなどした。

 高校時代から教師や周囲の人々によって、芸術面での才能を認められていた彼は、1976年、ウォルト・ディズニーが設立したカリフォルニア・インスティテュート・オブ・ジ・アーツ(カル・アーツ)で学ぶための奨学金を獲得。そこで3年間アニメーター養成教育を受けた後、ディズニー・スタジオに採用される。カル・アーツからディズニーへと至るアニメーター養成課程は、ベルトコンベヤー式にアニメを量産するなかで歯車の役割を求めるもので、「アーティストでありつつ軍隊の一員でもあれ」と不可能な要求を突き付けられていたと彼は述懐している。しかし社内には、アニメーターやコンセプチュアル・アーティストとしての彼の才能を擁護する者もいて、バートンは1982年にスタジオの創作開発課から資金を得て、ストップモーション・アニメーションの短編『ヴィンセント』を製作。表現主義的なセット・デザインのなかで、バートン自身を思わせる7歳の少年が俳優のビンセント・プライスになることを夢想する内容で、プライス本人がナレーションを担当してくれたことから、1993年のプライスの死まで公私にわたる交流が継続される。この作品で才能を認められたバートンは、1983年に初めてプロの俳優を使った実写映画の短編『フランケンウィニー』を監督する機会に恵まれる。少年が事故死した愛犬を電気ショックで生き返らせたものの、結局、町の住人に気味悪がられ、ふたたび犬は死に追いやられてしまう、といったフランケンシュタイン物語の翻案である。当初は劇場公開が予定されていたが、内容がシリアスすぎるためPG指定(Parental Guidance Suggestedの略。保護者の同伴が望ましい、という指定)を受けてお蔵入りとなった(1992年になってビデオ化された)。1984年、バートンはディズニー社を退社。『フランケンウィニー』が業界ですでに評判になっていったため、子ども向けテレビ番組で人気を博していたポール・ルービンスPaul Reubens(1952―2023。役名ピーウィー・ハーマンPee Wee Herman)を主演とした映画の監督をワーナー・ブラザーズから依頼される。長編デビュー作『ピーウィーの大冒険』(1985)は、主人公のピーウィーが盗まれた自転車を探し求める旅の過程で繰り広げられるドタバタ・コメディで、批評は芳しくなかったものの興行的に成功。引き続きバートンが演出した、幽霊屋敷の物語ながらブラック・コメディのテイストが濃厚な『ビートルジュース』(1988)は、批評家にも絶賛され、大ヒットを記録。技術的な洗練が進む一方であった当時のハリウッドの流れに逆行するかのように、プリミティブな雰囲気の特殊効果も評価され、アカデミー最優秀メイクアップ賞に輝く。

 これまでさまざまな監督が候補にあがってきた、伝説的なコミックおよびテレビ・シリーズ「バットマン」の映画化をワーナー・ブラザーズから依頼されたバートンは、オリジナルのコミック・ブックの精神に忠実に、スーパーヒーローとしてではなく、屈折した二面性をはらむ存在としてバットマンを描くことを決意。『ビートルジュース』に引き続き、マッチョなイメージからほど遠いマイケル・キートンMichael Keaton(1951― )を主役に起用することが発表されると、従来のバットマンのイメージを傷つけると、多くのコミック・ファンから抗議の手紙が殺到する。ワーナー側のはでな宣伝戦略もあり、完成前からさまざまな話題に包まれた『バットマン』(1989)は、あまりにも陰鬱(いんうつ)なバットマン像への批判はあったものの、空前の大ヒットを記録。アカデミー賞でも美術賞に輝き、ワーナー側は続編をバートンに依頼する。しかしバートンはいったん原点に戻るべく、彼が幼年時代から心に思い浮かべてきた、両手が鋏(はさみ)の形状をした孤独な人物を主人公とする物語の映画化を進める。完成した『シザーハンズ』(1990)は、バートンのフィルモグラフィー中、もっとも率直に彼自身の心情が吐露された作品となった。ビンセント・プライス演じる老発明家の手で創造された人造人間エドワードは、発明家の急死で天涯孤独の身で城に暮らすようになる。同情した主婦によって郊外住宅地に連れて来られたものの、鋏の手をもつエドワードはやがて危険な異分子とみなされ、暴力的な手段で追放される。ここでもバートン自身が体験し観察してきた、自分たちと異なるタイプの存在に対してときにきわめて排他的にふるまう、郊外住宅地=コミュニティに対する怒りが、フランケンシュタイン物語を下敷きに、「おとぎ話」の体裁を借りて表明された。

 次にワーナーの依頼にこたえて監督を務めた『バットマン・リターンズ』(1992)は、全体として前作より活発なトーンに仕上がったものの、前作にも増してバットマンの敵役の描写に情熱が注がれた。バートンが反対するのは、人間を善/悪にカテゴライズする思考法そのものであり、彼が学校や企業に違和感を覚えたのも、出来のいい子/悪い子といったカテゴライズを即座に行うシステムゆえであった。

 伝記映画『エド・ウッド』(1994)は、ほとんどだれからも評価されることのない作品群を、だれにもまねのできない情熱で撮り続け、皮肉にもこの世を去った後の1980年代以降になって「史上最悪の映画監督」として脚光を浴びたエド・ウッドEdward D. Wood Jr.(1924―1978)の人生を、徹底して温かく軽やかなタッチで描いてみせた作品である。同作は、バートンにとって初めて実在の人物を扱った映画であるだけでなく、ユニークな視覚表現や「おとぎ話」的な物語設定の影に埋もれがちな、彼の演出家としての実力を広く知らしめる作品となった。そればかりか、理解することが困難な妄想の世界を、少数の同志の力を借りて映画にするウッドの情熱や楽天性が、バートンにきわめて生産的に受け継がれたことも示したのである。

 ゴシック・ホラーの世界に回帰して大ヒットした『スリーピー・ホロウ』(1999)、伝説的なSF映画の大胆なリメイク『PLANET OF THE APES 猿の惑星』(2001)、父と息子の和解の物語をファンタジックに綴る『ビッグ・フィッシュ』(2003)と、当初、マイナー志向の映画監督とみなされてきたバートンの作家としての奥行きは年を重ねるにつれて深まっている。彼は映画に対する姿勢において妥協することなく、いまやハリウッドのメインストリームに位置づけられる存在となった。

[北小路隆志]

資料 監督作品一覧

ヴィンセント Vincent(1982)
フランケンウィニー Frankenweenie(1984)
ピーウィーの大冒険 Pee-wee's Big Adventure(1985)
フェアリー・テール・シアター~「ティム・バートンのアラジンと魔法のランプ」 Faerie Tale Theatre - Aladdin and His Wonderful Lamp(1986)
ビートルジュース Beetle Juice(1988)
バットマン Batman(1989)
シザーハンズ Edward Scissorhands(1990)
バットマン リターンズ Batman Returns(1992)
エド・ウッド Ed Wood(1994)
マーズ・アタック! Mars Attacks!(1996)
スリーピー・ホロウ Sleepy Hollow(1999)
PLANET OF THE APES 猿の惑星 Planet of the Apes(2001)
ビッグ・フィッシュ Big Fish(2003)
チャーリーとチョコレート工場 Charlie and the Chocolate Factory(2005)
ティム・バートンのコープスブライド Corpse Bride(2005)
スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 Sweeney Todd : The Demon Barber of Fleet Street(2007)
アリス・イン・ワンダーランド Alice in Wonderland(2010)
ダーク・シャドウ Dark Shadows(2012)
フランケンウィニー Frankenweenie(2012)

『マーク・ソールズベリー編、遠山純生訳『バートン・オン・バートン』(1996・フィルムアート社)』『柳下毅一郎責任編集『フィルムメーカーズ10 ティム・バートン』(2000・キネマ旬報社)』


バートン(Derek Harold Richard Barton)
ばーとん
Derek Harold Richard Barton
(1918―1998)

イギリスの有機化学者。グラスゴー大学を経て、母校インペリアル・カレッジの有機化学主任教授となる。今日の、脂環式化合物の立体配座解析の基礎をつくった業績で知られる。O・ハッセルが、シクロヘキサンおよびその誘導体に対する気体電子線回折法による研究で明らかにした、シクロヘキサンの椅子(いす)型構造、側鎖の配位についての軸(アキシアル)結合・赤道(エカトリアル)結合などの概念を、セスキテルペン、ステロイドなどの場合に導入・適用し、その複雑な反応性の説明を行った。リモニンの構造、アルカロイドの生合成などの研究でも知られる。1969年、ハッセルとともにノーベル化学賞を受賞した。

[荒川 泓]


バートン(William Meriam Burton)
ばーとん
William Meriam Burton
(1865―1954)

アメリカの石油精製技術者。ウェスタン・リザーブ大学、ジョンズ・ホプキンズ大学で学び、1889年にスタンダード石油会社に化学者として入社、1895年に技師長となる。当時の石油精製の最大の課題は、自動車の普及に伴って増大してきたガソリン需要に応じるため、原油からのガソリン収得率を向上させることであったが、1912年に彼は熱分解によるバートン法を完成した。その普及はきわめて急速で、1913年の1月に最初の熱分解装置12基が稼動を始め、1917年にはスタンダード石油会社(インディアナ)で500基が稼動していた。この功績により1915年に副社長に昇進、1918年から1927年には社長を務めた。また、1918年にはアメリカ化学会からウィラード・ギッブス賞、1921年には化学工業協会からパーキン賞を授与された。

[加藤邦興]


バートン(Virginia Lee Burton)
ばーとん
Virginia Lee Burton
(1909―1968)

アメリカの絵本作家。マサチューセッツに生まれる。カリフォルニアおよびボストンで美術を、サンフランシスコでバレエを学んだ。1931年、彫刻家ディミトリオスと結婚。35年から絵本制作に入る。長男のために書いた『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』(1937)、次男のために書いた『マイク・マリガンとスチームショベル』(1939)をはじめとする絵本は、いずれも、動きのある明快な絵と、絵にあわせて配置されたリズミカルで簡潔、的確な文章による優れた作品。『ちいさいおうち』(1942)により、コールデコット賞受賞。

[松野正子]

『村岡花子訳『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』(1961・福音館書店)』『石井桃子訳『マイク・マリガンとスチームショベル』(1978・福音館書店)』『石井桃子訳『ちいさいおうち』(1954・岩波書店)』


バートン(Robert Burton)
ばーとん
Robert Burton
(1577―1640)

イギリスの神学者。『躁鬱(そううつ)の解剖』の著者として知られる。オックスフォード大学卒業後、同大学の神学科研究員となり、二つの教会の牧師を兼ねる。彼は自らいうように「扶養すべき良妻健児もなければ悪妻豚児もなく」「地図の上でなければ」旅をしたこともない単調な独身生活を送り、書籍のみが一生の伴侶(はんりょ)で、蔵書は死後、母校のボドリアン図書館に寄贈された。

[斎藤美洲]


バートン(Sir Richard Francis Burton)
ばーとん
Sir Richard Francis Burton
(1821―1890)

イギリスの探検家、文筆家。先駆的なアフリカ探検の成果として『東アフリカへの第一歩』(1856)、『中央アフリカの湖水地方』(1860)の著書があるほか、語学の天分を生かした『千夜一夜物語』のアラビア語原典からの英訳(1885~88)があり、バートン版として著名である。ポルトガルの国民叙事詩、カモンイスの『ウス・ルジーアダス』の英訳(1881)もある。

[土岐恒二]

『藤野幸雄著『探検家リチャード・バートン』(1986・新潮社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バートン」の意味・わかりやすい解説

バートン
Burton, Tim

[生]1958.8.25. カリフォルニア,バーバンク
アメリカ合衆国の映画監督。本名 Timothy William Burton。空想が入り混じる不気味な世界を描いた,奇抜な作風で知られる。カリフォルニア芸術大学卒業後,ウォルト・ディズニー・プロダクションでアニメーターとして働いた。『フランケンウィニー』Frankenweenie(1984)などの短編ののち,長編『ピーウィーの大冒険』Pee-Wee's Big Adventure(1985)を手がける。『ビートルジュース』Beetlejuice(1988),『バットマン』Batman(1989)とその続編で地位を確立した。『シザーハンズ』Edward Scissorhands(1990)で初めてジョニー・デップとコンビを組む。デップは『エド・ウッド』Ed Wood(1994),ワシントン・アービングの小説を下敷きにした『スリーピー・ホロウ』Sleepy Hollow(1999),児童書が原作の『チャーリーとチョコレート工場』Charlie and the Chocolate Factory(2005)などにも出演。SF映画の名作のリメーク『PLANET OF THE APES/猿の惑星』The Planet of the Apes(2001)で,ヘレナ・ボナム=カーターと知り合い公私ともにパートナーとなる。アニメーション『ティム・バートンのコープス・ブライド』Corpse Bride(2005)ではデップとボナム=カーターが声優として出演。2人はスティーブン・ソンドハイムのミュージカルを元にした『スウィーニー・トッド/フリート街の悪魔の理髪師』Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street(2007),ルイス・キャロルの名作を映画化した『アリス・イン・ワンダーランド』Alice in Wonderland(2010)などにも出演している。

バートン
Barton, Sir Derek Harold Richard

[生]1918.9.8. グレーブゼンド
[没]1998.3.16. テキサス,カレッジステーション
イギリスの有機化学者。ロンドンの帝国科学技術カレッジ卒業。同カレッジ講師 (1945~49) ,ハーバード大学客員教授 (49~50) ,グラスゴー大学化学教授 (55~57) を経て,帝国科学技術カレッジ有機化学教授 (57) 。フランスの天然物化学研究所 (C.N.R.S.) 所長 (78) 。テキサスA&M大学教授 (86) 。セスキテルペン,ステロイドなど脂環式化合物の立体配座解析の基礎を築いたほか,亜硝酸エステルの光化学反応によるγ-メチル基の酸化法 (バートン反応) の発見およびそのアルドステロン合成への応用,リモニンの構造決定,アルカロイドの生合成の研究などで業績を上げた。 1969年,O.ハッセルとともにノーベル化学賞受賞。 72年ナイトの称号を贈られた。アメリカ化学会よりプリーストリー賞受賞 (95) 。

バートン
Barton, Elizabeth

[生]1506頃. ケント
[没]1534.4.21. ロンドン
「ケントの聖処女」と呼ばれたイギリスの宗教的予言者。ケントの聖職者 R.マスターズの下女であったが,1525年頃病気になり,夢遊状態で聖霊のお告げを聞いたことから,巫女的な予言者になった。彼女を利用しようと考えたカンタベリー大主教ウィリアム・ウォラムのはからいでカンタベリーに迎えられ,聖処女として人々の人気を集めたが,国王ヘンリー8世が王妃カサリンと離婚してアン・ブリンと結婚すれば,1ヵ月以内に死亡するであろうと予言したため捕えられ,星室裁判所で裁かれた。その結果,セントポール聖堂で発言の虚偽を公表させられ,のち処刑された。

バートン
Burton, Decimus

[生]1800. ロンドン
[没]1881.12.14. ロンドン
イギリスの建築家。父ジェームズ(1761~1837)の事務所で学ぶ。セント・ポール大聖堂よりやや大きなドームとドーリス式のポルチコ(→ポーチ)をもつコロセウムをリージェント公園に設計(1824~27),またジョン・ナッシュのリージェント街の計画に参加,ハイドパーク・コーナーを設計した(1825)。リチャード・ターナーと協力してキューガーデンのパーム・ハウス(1844~48),また多くの住宅も設計した。

バートン
Burton, Virginia Lee

[生]1909.8.30. マサチューセッツ,ニュートンセンター
[没]1968.10.15. マサチューセッツ,ボストン
アメリカの画家,デザイナー,絵本作家。カリフォルニアの美術学校に学び,彫刻家ジョージ・ディミートリアスと結婚。最初の絵本『いたずら機関車ちゅうちゅう』 Choo Choo (1935) は長男のためにつくったといわれる。コールデコット賞を受けた『小さいおうち』 The Little House (1942) は一軒家のあった丘が大都市になる過程を,また『生命の歴史』 Life Story (1962) は地球上の生命誕生から現代までの人間の歴史を,ともにS字形に半円を重ねて遠い距離感を出す独特の画法で描いた。

バートン
Barton, Clara; Clarissa Harlowe Barton

[生]1821.12.25. マサチューセッツ,オックスフォード
[没]1912.4.12. メリーランド,グレンエコー
アメリカ赤十字の創立者。学校教師,官吏として働いたのち,南北戦争中負傷兵の救助活動に尽した。戦後ヨーロッパに滞在中,普仏戦争の勃発をみ,ここでも傷病兵救助に努め,ジュネーブの国際赤十字と関係し,帰国後 1881年アメリカ赤十字を創設,初代総裁として 1904年までつとめた。 1882年アメリカのジュネーブ協定調印を成功させ,アメリカ=スペイン戦争中はキューバで活動した。主著『赤十字の歴史』 History of the Red Cross (1882) 。

バートン
Burton, Richard

[生]1925.11.10. サウスウェールズ,ポントリダフェン
[没]1984.8.5. ジュネーブ
イギリスの俳優。本名 Richard Walter Jenkins。 1943年リバプールでデビュー。 53年オールド・ビック劇場で演じたハムレットで注目され,その後オセロとイアーゴー (1956) ,C.フライの詩劇,ミュージカル『キャメロット』 (60) などの舞台で成功した。 64年のニューヨークにおけるハムレット (J.ギールグッド演出) も有名。 48年以後,多くの映画にも出演した。

バートン
Burton, Sir Richard Francis

[生]1821.3.19. トルケー
[没]1890.10.20. トリエステ
イギリスの探検家,東洋学者。オックスフォード大学を中退,インドで数年を過ごしたのちアラブ地域を探検,1853年メッカにいたる。 J.スピークとともにナイル川の水源探索に乗り出し,1858年タンガニーカ湖を発見。探検記のほか,天才的な語学力を生かした『千一夜物語』の英訳 (16巻,1885~88) で有名。

バートン
Burton, John Hill

[生]1809.8.22. アバディーン
[没]1881.8.10. エディンバラ
スコットランドの歴史家。初め弁護士になるために法律を勉強したが,ベンサム著作集に参与し,次いで『デービッド・ヒューム伝』 Life and Correspondence of David Hume (1846) によって名声を得て以来,文筆活動に専念,『スコットランド史』 History of Scotland (53~70) などを著わした。監獄局書記官 (54~81) 。

バートン
Barton, Sir Edmund

[生]1849.1.18. シドニー
[没]1920.1.7. メドロー
オーストラリアの政治家。シドニー大学を卒業後,法律を学び,1879年にニューサウスウェールズ植民地議会議員となり,89,91~93年には法務長官。 91年以降連邦化運動を推進し,出身地ニューサウスウェールズの反対を説得し,連邦結成に成功。初代首相 (1900~03) となり,その後 1920年まで最高裁判所判事をつとめた。 02年にナイト爵を叙爵。

バートン
Burton, Robert

[生]1577.2.8. レスターシャー,リンドリー
[没]1640.1.25. オックスフォード
イギリスの聖職者。オックスフォード大学に学び,生涯をこの地で過ごした。憂鬱症とその治療法を中心にさまざまな話題を取り上げた随筆集ともいうべき『憂鬱の解剖』 The Anatomy of Melancholy (1621) の著者として知られる。

バートン
Barton, John Bernard Adie

[生]1928.11.26. ロンドン
イギリスの演出家。ケンブリッジ大学卒業。 1961年ロイヤル・シェークスピア劇団の結成に参加,63年『ヘンリー6世』3部作と『リチャード3世』を監修して『バラ戦争』と題する新しい3部作を作り成功 (演出 P.ホール) 。また同劇団で『十二夜』 (1969) ,『オセロ』 (71) などを演出している。

バートン
Burton, William Evans

[生]1804
[没]1860.2.10. ニューヨーク
イギリス出身の俳優,劇場経営者。 1834年渡米,48年ニューヨークにバートン劇場を開設し,ディケンズやシェークスピアの作品を多く上演したが,ウォラック劇場の出現 (1852) で打撃を受け,引退した。その後一時メトロポリタン劇場を経営 (56~58) した。

バートン
Barton, James Edward

[生]1890.11.1. ニュージャージー
[没]1962.2.19. ミネオラ
アメリカの俳優。長年南部,中西部のレパートリー劇団などに出演していたが,1919年ニューヨークへ進出。当り役は『タバコ・ロード』のレスター (1934) 。

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