アメリカの映画監督。カリフォルニア州バーバンク生まれ。出身地は多くのメジャー映画会社がスタジオを構える場所として知られるが、彼の育った環境は何の変哲もないアメリカの郊外住宅地であり、そこで受けた強烈な疎外感が彼の人格形成および後に撮る作品の基調をなす。彼にとって郊外で育つことは、「歴史に対する感覚、文化に対する感覚、何かへの情熱に関する感覚のない場所で育つこと」を意味した。10代のバートンは、映画館やテレビで古今のホラー映画や『ゴジラ』などの怪獣映画を見ることに熱中。なかでも彼のヒーローは、ホラー映画俳優のビンセント・プライスVincent Price(1911―1993)であった。その一方で、劇映画の特殊効果としてのストップモーション・アニメーション(人形などを静止画像で1こまずつ撮影し、映写することでそれらが動いているように見せる技術)の領域に革新をもたらしたレイ・ハリーハウゼンがかかわる一連の映画にあこがれ、友人と協力して稚拙ながらストップモーション・アニメーションを8ミリで撮影したり、学校での読書レポートのかわりに自作の短編映画を提出するなどした。
高校時代から教師や周囲の人々によって、芸術面での才能を認められていた彼は、1976年、ウォルト・ディズニーが設立したカリフォルニア・インスティテュート・オブ・ジ・アーツ(カル・アーツ)で学ぶための奨学金を獲得。そこで3年間アニメーター養成教育を受けた後、ディズニー・スタジオに採用される。カル・アーツからディズニーへと至るアニメーター養成課程は、ベルトコンベヤー式にアニメを量産するなかで歯車の役割を求めるもので、「アーティストでありつつ軍隊の一員でもあれ」と不可能な要求を突き付けられていたと彼は述懐している。しかし社内には、アニメーターやコンセプチュアル・アーティストとしての彼の才能を擁護する者もいて、バートンは1982年にスタジオの創作開発課から資金を得て、ストップモーション・アニメーションの短編『ヴィンセント』を製作。表現主義的なセット・デザインのなかで、バートン自身を思わせる7歳の少年が俳優のビンセント・プライスになることを夢想する内容で、プライス本人がナレーションを担当してくれたことから、1993年のプライスの死まで公私にわたる交流が継続される。この作品で才能を認められたバートンは、1983年に初めてプロの俳優を使った実写映画の短編『フランケンウィニー』を監督する機会に恵まれる。少年が事故死した愛犬を電気ショックで生き返らせたものの、結局、町の住人に気味悪がられ、ふたたび犬は死に追いやられてしまう、といったフランケンシュタイン物語の翻案である。当初は劇場公開が予定されていたが、内容がシリアスすぎるためPG指定(Parental Guidance Suggestedの略。保護者の同伴が望ましい、という指定)を受けてお蔵入りとなった(1992年になってビデオ化された)。1984年、バートンはディズニー社を退社。『フランケンウィニー』が業界ですでに評判になっていったため、子ども向けテレビ番組で人気を博していたポール・ルービンスPaul Reubens(1952―2023。役名ピーウィー・ハーマンPee Wee Herman)を主演とした映画の監督をワーナー・ブラザーズから依頼される。長編デビュー作『ピーウィーの大冒険』(1985)は、主人公のピーウィーが盗まれた自転車を探し求める旅の過程で繰り広げられるドタバタ・コメディで、批評は芳しくなかったものの興行的に成功。引き続きバートンが演出した、幽霊屋敷の物語ながらブラック・コメディのテイストが濃厚な『ビートルジュース』(1988)は、批評家にも絶賛され、大ヒットを記録。技術的な洗練が進む一方であった当時のハリウッドの流れに逆行するかのように、プリミティブな雰囲気の特殊効果も評価され、アカデミー最優秀メイクアップ賞に輝く。
これまでさまざまな監督が候補にあがってきた、伝説的なコミックおよびテレビ・シリーズ「バットマン」の映画化をワーナー・ブラザーズから依頼されたバートンは、オリジナルのコミック・ブックの精神に忠実に、スーパーヒーローとしてではなく、屈折した二面性をはらむ存在としてバットマンを描くことを決意。『ビートルジュース』に引き続き、マッチョなイメージからほど遠いマイケル・キートンMichael Keaton(1951― )を主役に起用することが発表されると、従来のバットマンのイメージを傷つけると、多くのコミック・ファンから抗議の手紙が殺到する。ワーナー側のはでな宣伝戦略もあり、完成前からさまざまな話題に包まれた『バットマン』(1989)は、あまりにも陰鬱(いんうつ)なバットマン像への批判はあったものの、空前の大ヒットを記録。アカデミー賞でも美術賞に輝き、ワーナー側は続編をバートンに依頼する。しかしバートンはいったん原点に戻るべく、彼が幼年時代から心に思い浮かべてきた、両手が鋏(はさみ)の形状をした孤独な人物を主人公とする物語の映画化を進める。完成した『シザーハンズ』(1990)は、バートンのフィルモグラフィー中、もっとも率直に彼自身の心情が吐露された作品となった。ビンセント・プライス演じる老発明家の手で創造された人造人間エドワードは、発明家の急死で天涯孤独の身で城に暮らすようになる。同情した主婦によって郊外住宅地に連れて来られたものの、鋏の手をもつエドワードはやがて危険な異分子とみなされ、暴力的な手段で追放される。ここでもバートン自身が体験し観察してきた、自分たちと異なるタイプの存在に対してときにきわめて排他的にふるまう、郊外住宅地=コミュニティに対する怒りが、フランケンシュタイン物語を下敷きに、「おとぎ話」の体裁を借りて表明された。
次にワーナーの依頼にこたえて監督を務めた『バットマン・リターンズ』(1992)は、全体として前作より活発なトーンに仕上がったものの、前作にも増してバットマンの敵役の描写に情熱が注がれた。バートンが反対するのは、人間を善/悪にカテゴライズする思考法そのものであり、彼が学校や企業に違和感を覚えたのも、出来のいい子/悪い子といったカテゴライズを即座に行うシステムゆえであった。
伝記映画『エド・ウッド』(1994)は、ほとんどだれからも評価されることのない作品群を、だれにもまねのできない情熱で撮り続け、皮肉にもこの世を去った後の1980年代以降になって「史上最悪の映画監督」として脚光を浴びたエド・ウッドEdward D. Wood Jr.(1924―1978)の人生を、徹底して温かく軽やかなタッチで描いてみせた作品である。同作は、バートンにとって初めて実在の人物を扱った映画であるだけでなく、ユニークな視覚表現や「おとぎ話」的な物語設定の影に埋もれがちな、彼の演出家としての実力を広く知らしめる作品となった。そればかりか、理解することが困難な妄想の世界を、少数の同志の力を借りて映画にするウッドの情熱や楽天性が、バートンにきわめて生産的に受け継がれたことも示したのである。
ゴシック・ホラーの世界に回帰して大ヒットした『スリーピー・ホロウ』(1999)、伝説的なSF映画の大胆なリメイク『PLANET OF THE APES 猿の惑星』(2001)、父と息子の和解の物語をファンタジックに綴る『ビッグ・フィッシュ』(2003)と、当初、マイナー志向の映画監督とみなされてきたバートンの作家としての奥行きは年を重ねるにつれて深まっている。彼は映画に対する姿勢において妥協することなく、いまやハリウッドのメインストリームに位置づけられる存在となった。
[北小路隆志]
ヴィンセント Vincent(1982)
フランケンウィニー Frankenweenie(1984)
ピーウィーの大冒険 Pee-wee's Big Adventure(1985)
フェアリー・テール・シアター~「ティム・バートンのアラジンと魔法のランプ」 Faerie Tale Theatre - Aladdin and His Wonderful Lamp(1986)
ビートルジュース Beetle Juice(1988)
バットマン Batman(1989)
シザーハンズ Edward Scissorhands(1990)
バットマン リターンズ Batman Returns(1992)
エド・ウッド Ed Wood(1994)
マーズ・アタック! Mars Attacks!(1996)
スリーピー・ホロウ Sleepy Hollow(1999)
PLANET OF THE APES 猿の惑星 Planet of the Apes(2001)
ビッグ・フィッシュ Big Fish(2003)
チャーリーとチョコレート工場 Charlie and the Chocolate Factory(2005)
ティム・バートンのコープスブライド Corpse Bride(2005)
スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 Sweeney Todd : The Demon Barber of Fleet Street(2007)
アリス・イン・ワンダーランド Alice in Wonderland(2010)
ダーク・シャドウ Dark Shadows(2012)
フランケンウィニー Frankenweenie(2012)
『マーク・ソールズベリー編、遠山純生訳『バートン・オン・バートン』(1996・フィルムアート社)』▽『柳下毅一郎責任編集『フィルムメーカーズ10 ティム・バートン』(2000・キネマ旬報社)』
イギリスの有機化学者。グラスゴー大学を経て、母校インペリアル・カレッジの有機化学主任教授となる。今日の、脂環式化合物の立体配座解析の基礎をつくった業績で知られる。O・ハッセルが、シクロヘキサンおよびその誘導体に対する気体電子線回折法による研究で明らかにした、シクロヘキサンの椅子(いす)型構造、側鎖の配位についての軸(アキシアル)結合・赤道(エカトリアル)結合などの概念を、セスキテルペン、ステロイドなどの場合に導入・適用し、その複雑な反応性の説明を行った。リモニンの構造、アルカロイドの生合成などの研究でも知られる。1969年、ハッセルとともにノーベル化学賞を受賞した。
[荒川 泓]
アメリカの石油精製技術者。ウェスタン・リザーブ大学、ジョンズ・ホプキンズ大学で学び、1889年にスタンダード石油会社に化学者として入社、1895年に技師長となる。当時の石油精製の最大の課題は、自動車の普及に伴って増大してきたガソリン需要に応じるため、原油からのガソリン収得率を向上させることであったが、1912年に彼は熱分解によるバートン法を完成した。その普及はきわめて急速で、1913年の1月に最初の熱分解装置12基が稼動を始め、1917年にはスタンダード石油会社(インディアナ)で500基が稼動していた。この功績により1915年に副社長に昇進、1918年から1927年には社長を務めた。また、1918年にはアメリカ化学会からウィラード・ギッブス賞、1921年には化学工業協会からパーキン賞を授与された。
[加藤邦興]
アメリカの絵本作家。マサチューセッツに生まれる。カリフォルニアおよびボストンで美術を、サンフランシスコでバレエを学んだ。1931年、彫刻家ディミトリオスと結婚。35年から絵本制作に入る。長男のために書いた『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』(1937)、次男のために書いた『マイク・マリガンとスチームショベル』(1939)をはじめとする絵本は、いずれも、動きのある明快な絵と、絵にあわせて配置されたリズミカルで簡潔、的確な文章による優れた作品。『ちいさいおうち』(1942)により、コールデコット賞受賞。
[松野正子]
『村岡花子訳『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』(1961・福音館書店)』▽『石井桃子訳『マイク・マリガンとスチームショベル』(1978・福音館書店)』▽『石井桃子訳『ちいさいおうち』(1954・岩波書店)』
イギリスの神学者。『躁鬱(そううつ)の解剖』の著者として知られる。オックスフォード大学卒業後、同大学の神学科研究員となり、二つの教会の牧師を兼ねる。彼は自らいうように「扶養すべき良妻健児もなければ悪妻豚児もなく」「地図の上でなければ」旅をしたこともない単調な独身生活を送り、書籍のみが一生の伴侶(はんりょ)で、蔵書は死後、母校のボドリアン図書館に寄贈された。
[斎藤美洲]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
イギリスの文人。オックスフォード大学を出て牧師となったが,彼の名声は奇書《憂鬱(ゆううつ)の解剖》(1621)による。〈憂鬱(メランコリー)〉とは,当時(ルネサンス末期)の時代病のようなもので,今日の〈ノイローゼ〉や〈心身症〉と似て,日常会話のレベルで話題にされていた。ハムレットの性格造形もこの風潮にもとづいているといわれる。バートンはこの時代病を,中世からルネサンスを通じての常識であった気質論にもとづいて〈解剖〉してみせる。各種の症状やその原因の分類があり,話題は恋愛や宗教に及び,ついには治癒方法も語られる。基本の思想は,宗教的抗争の時代における寛容の美徳の主張であったといえよう。古今の万巻の書を渉猟しつつ,独特のユーモアとペーソスでつづる語り口は,英語の文体としても特色があり,17世紀の古典となった。
執筆者:川崎 寿彦
アメリカの石油化学技術者,企業家。1889年にジョンズ・ホプキンズ大学を卒業,学位を取得してのち,スタンダード・オイル会社(インディアナ)に入社。1909年ころから原油の熱分解蒸留(クラッキング)の研究に取り組み,13年1月インディアナ州ウィッティングでその工業化に成功した。彼の発明は他社の石油工場でも相次いで採用され,後の石油化学工業発展に重大な役割を果たした。18年スタンダード・オイル会社社長に就任,同年石油化学への功績に対してギブズ・メダル,21年パーキン・メダルを受賞した。
執筆者:古川 安
イギリスの探検家,学者。インド駐留軍人として,インドをはじめ中東やアフリカなど各地を旅行し,インド滞在記,奥ナイル川探検記などを発表した。またアラビアのメッカを訪れた(1853)もっとも初期のイギリス人の一人である。近東地方の諸言語を研究し,晩年は文学に傾倒,《アラビアン・ナイト》(《千夜一夜物語》)を原語から英訳した(全16巻,1885-88)。この完訳は現在でも〈バートン版〉として知られている。
執筆者:小池 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
イギリスの有機化学者.1938年ロンドン大学インペリアル・カレッジに入学し,1942年Ph.D.を取得.インペリアル・カレッジ,ハーバード大学,バーベック・カレッジ,グラスゴー大学を経て,1957年インペリアル・カレッジの有機化学教授となった.1977~1985年,フランスのパリ郊外のGif-sur-Yvetteにあるフランス国立科学センター(CNRS)有機化学研究所で研究を行い,定年後,テキサスA&M大学教授となった.O. Hassel(ハッセル)によって説明されたシクロヘキサンのいす形構造の考えをもとに,配座解析の概念を提唱した.この功績により,1969年Hasselとともにノーベル化学賞を受賞.また,アメリカ化学会のRoger Adams Medal(1959年)など,数々の賞を受けた.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…多数の作者の手を経たらしいが,いくつかの詩のほかは,原作者の名は不明である。日本では,明治8年(1875),永峯秀樹が《開巻驚奇・暴夜(アラビア)物語》と題して英訳から重訳したのが最初で,レーンEdward William Lane(1801‐76),R.F.バートン,マルドリュスJoseph Charles Mardrus(1868‐1949)らの英訳またはフランス語訳からの重訳が行われてきた。平凡社東洋文庫版《アラビアン・ナイト》は,カルカッタ第2版,ブーラーク版などに拠る原典からの訳である。…
…隊の達した最南地点はゴンドコロで,ビクトリア湖の下流約500kmの地点であった。ナイル川をさかのぼるのではなしに,東アフリカ海岸から内陸に入るというコースを取ったのはイギリスの探検家R.F.バートンとスピークJohn Speke(1827‐64)である。彼らは58年2月タンガニーカ湖を発見した。…
…古代の神話や伝説の多くに,例えばギルガメシュとエンキドゥ(《ギルガメシュ叙事詩》),ホルスの腿間にペニスを挿入したセト(《ホルスとセトの争い》),イエスがだれよりも親密な交わりをもったヨハネ(《黄金伝説》)など,男色を疑わせる話がある。またR.バートンの《千夜一夜物語》英訳本の巻末論文には〈男色〉の一節があって,古今東西のおびただしい例を挙げている。その中で〈ローマやエジプトではイシスをまつる神殿は男色の中心であり,この宗教的行為はメソポタミアからメキシコ,ペルーにいたる偉大な神官階級によって行われていた〉と述べているように,男色は古代宗教と密接に結合していた。…
… メランコリーがしかし歴史の脚光をあびるのはルネサンス期に入ってからで,たとえばドイツの画家デューラーは1514年に有翼の女性の沈思の姿をかりて銅版画《メレンコリア・I》を描き,同時代のミケランジェロはメディチ家の廟を《ペンセローソ(沈思の人)》で飾り,1世紀後のミルトンも同名の詩をつくってメランコリーを賛美する。さらに,1621年に出た牧師R.バートン《メランコリーの解剖学(憂鬱の解剖)》は当時のベストセラーの一つだったと伝えられる。このように,メランコリーが哲学や芸術と結びつけられて人気を博すことになったのは,イタリアのフィレンツェに興った新プラトン主義の影響によるものとされる。…
※「バートン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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