デュ・ベレー(読み)でゅべれー(その他表記)Joachim Du Bellay

日本大百科全書(ニッポニカ) 「デュ・ベレー」の意味・わかりやすい解説

デュ・ベレー
でゅべれー
Joachim Du Bellay
(1522?―1560)

フランス詩人プレイアード詩派の一員。ロアール河畔リレに生まれる。地方貴族の名門の出身だが早くから孤児となり、孤独のうちに成長する。ポアチエで法律を学んでいたころから詩作に手を染め、ペルチエら詩人たちと交遊を結ぶ。ロンサールに出会ったのもこのころ(1547?)といわれる。ロンサール、バイフ(ジャン・アントアーヌ)とともにパリのコクレ学寮において、ギリシア学者ドラについて古典学を学ぶ。1549年、彼はコクレ学寮グループを中心に生まれたプレイアード派の前身「部隊(ブリガード)」brigadeの宣言書『フランス語擁護顕揚』La Défense et illustration de la langue françaiseを発表する。フランス語の使用を力説し、それを豊かにすべきこと、そのために古代やイタリアに倣って詩の革新を説く彼の主張は新しいものではなかったが、そこに表明された明確な芸術家意識、また当時の詩人たちに与えた影響によって、まさに一時代を画するものであった。

 彼は同時に公刊したペトラルカ風のソネット集『オリーブ』L'Oliveで理論を実践する。しかしペトラルキスムから出発した彼の詩風は大きく変化する。1553年従兄ジャン・デュ・ベレー枢機卿(すうききょう)Jean du Bellay(1492―1560)に従ってローマに赴き、4年間滞在。この旅の間に、古代ローマの偉大と現在の退廃を歌った『ローマの古蹟(こせき)』Les Antiquités de Rome、故郷への思いとローマでの幻滅を歌った『哀惜詩集』Les Regrets、また『田園遊楽集』Divers jeux rustiques(いずれも1558)などの代表作が生まれる。ことに個人的な感情を率直に歌い上げた『哀惜詩集』は最高傑作といっても過言でなく、その叙情と風刺精神との結び付きは後世の高い評価を得ている。

[髙橋由美子]

『Y・ベランジェ著、高田勇・伊藤進訳『プレイヤード派の詩人たち』(白水社・文庫クセジュ)』

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改訂新版 世界大百科事典 「デュ・ベレー」の意味・わかりやすい解説

デュ・ベレー
Joachim Du Bellay
生没年:1522-60

フランス,ルネサンス期の詩人。アンジュー地方の小貴族の家に生まれる。1544年ポアティエに学び詩作に目覚め,46年盟友ロンサールと出あいその推薦によって翌年パリのコクレ学寮にはいる。49年散文の論説《フランス語の擁護と顕揚》を発表したが,これはのちに〈プレイヤード派〉と名付けられる,共通の新しい文芸理論を抱くグループの意見を代表するものであった。すなわち,フランス語は文学表現の手段として用いられて当然であるが,そのためには古代文芸,イタリア文学にならって内容を充実すべきであり,新語の導入,新詩型の移入,修辞の工夫等に努力を払いつつ誇りと自覚をもって創作をおこなうことを説く。詩集《オリーブ》(1549)はペトラルカらを模した〈ソネ〉(十四行詩)50編より成り,みずからの主張を実践するものであった。53年一門の顕官ジャン・デュ・ベレーに従ってローマに赴き,4年間の滞在中に《ローマの古跡》《哀惜詩集》《田園遊楽詩集》(すべて1558)を構成する詩編を綴った。第1のものはみずからの視座を意識しつつ古代ローマの文化を賛美するソネ集,第2のものは彼の最高傑作とされる191編のソネ集で,現実のローマの生活で体験される偽善と悪徳を風刺嘲笑し,望郷の悲痛な思いを吐露する。デュ・ベレーはこれらの詩集で彼自身の真率な心情,繊細な感受性から発する個性的な流麗かつ調和ある表現を展開し,模倣を超えた真の創出を実現した。病苦のうちに死去。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デュ・ベレー」の意味・わかりやすい解説

デュ・ベレー
Du Bellay, Joachim

[生]1522. アンジェ
[没]1560.1.1. パリ
フランスの詩人。名門の出身で初め法律を学び,1547年ロンサールと知合い,ともにコクレ学寮で J.ドラの指導を受けた。 49年,プレイヤッドの宣言『フランス語の擁護と顕揚』 Défense et Illustration de la langue françaiseを発表,ギリシア・ラテンの模倣を通じてフランス語の可能性を追求しようとした。 53年から 57年までのローマ滞在から,郷愁と怒りのソネット詩集『哀惜詩集』 Les Regrets (1558) ,古代ローマの偉大さを賛美し,現代の堕落を嘆く『ローマの古跡』 Les Antiquités de Rome (58) が生れた。

デュ・ベレー
Du Bellay, Jean

[生]1492頃
[没]1560.2.16. ローマ
フランスの枢機卿,外交官。 G.デュ・ベレーの弟。 1526年にバヨンヌ,32年にパリの司教をつとめ,国王フランソア1世に仕えて,イングランド,イタリアに外交官として派遣され,35年枢機卿となった。 36~37年のフランスと神聖ローマ帝国との戦乱中は陸軍中将として活躍。 41~44年リモージュ司教,44~53年ボルドー大司教,46~56年ルマン司教を兼任したが,アンリ2世の戴冠と同時に寵を失い,53年以降はローマに定住し,オスチアの司教となった。人文主義者の保護者として知られ,ラテン語の詩集,書簡集などが残されている。

デュ・ベレー
Du Bellay, Guillaume, Sieur de Langey

[生]1491. サルトグラティニー
[没]1543.1.9. リヨン近郊
フランスの軍人,政治家。国王フランソア1世とともにイタリアに遠征 (1525) し,パビアの戦いに敗れ国王とともに捕えられた。以後外交を担当し,イングランド,ドイツとの関係調整にあたった。自身はカトリックであったがプロテスタントを保護。 F.ラブレーその他当代の文人と親交があり,自身も著作を残した。代表作は『回想録』 Mémoires。

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百科事典マイペディア 「デュ・ベレー」の意味・わかりやすい解説

デュ・ベレー

フランスの詩人。ロンサールらとプレイヤード派を結成し,《フランス語の擁護と顕揚》(1549年)で,詩型を古典に求め古代語を活用すべきことを宣言。枢機卿のいとこに秘書として同行,ローマに滞在した際のソネット集《哀惜詩集》《ローマの古跡》などの作品がある。

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世界大百科事典(旧版)内のデュ・ベレーの言及

【ヨーロッパ】より

…第2の層は,王権の基盤である北フランスのオイル語,とりわけパリ地域で用いられてきたフランシアン方言を基準とする標準フランス語であった。人文主義者の一人J.デュ・ベレーは《フランス語の擁護と顕揚》(1549)において,この美しい〈フランス語〉を擁護する。その活動が全国的な人と物の流通の上に成立するブルジョアジーは,この国民語をこそ推奨しなければならない。…

【ラブレー】より

…以後新作出版のたびに神学部やパリ高等法院の追及を受け,著書は発禁,作者は亡命を繰り返すことになる。ただ幸いにも彼は人文主義的な重臣デュ・ベレー兄弟らに愛され,1534,35‐36,47‐49年の3回にわたって弟のパリ司教ジャンの侍医兼秘書としてローマその他に滞在し,古代文化に直接触れ,各地の人文学者と交流の機を得たし,1551年には生活の資となる二つの司祭職も与えられた。また1539‐40,41,42年にはフランス占領下の北イタリア,ピエモンテ地方総督代理となった兄ギヨームに随行し,トリノに滞在している。…

※「デュ・ベレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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