ドイツの哲学者,経済学者,社会主義者。ベルリン近郊で官吏の子として生まれたが幼時に両親と死別,孤児院で成長。法学を学び裁判所に務めたが失明,この悪条件にもかかわらずベルリン大学私講師となり,哲学および経済学を講じた。1873年の《国民経済学ならびに社会経済学教程》および75年の《哲学教程》で脚光を浴び,ドイツの社会主義運動家たちの間でも共感を生んだ。75年のゴータ大会(ゴータ綱領)において,それまでのラサール派とマルクス派とが合同して成立したドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)の一部に対するデューリングの影響には絶大なものがあった。ラサールおよびマルクスを批判しつつ独自の体系を提示したデューリングに対して,エンゲルスは党の中央機関紙《フォアウェルツ(前進)》に反デューリング連載論文(77年1月から78年7月まで)を発表して応戦した(これを合本にしたのが《反デューリング論》と通称される《オイゲン・デューリング氏の科学の変革》(1878)である)。デューリングは,77年に教壇から追放された。彼を擁護する運動が学生を中心にして展開されたりもしたが,78年に社会主義者鎮圧法が施行されて以後は,忘れられた存在になった。著作としては,上述のもののほかに《自然的弁証法》(1865),《生の価値》(1865),《現実哲学》(1895)などがある。
執筆者:廣松 渉
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ドイツの哲学者、政治経済学者。ベルリンに生まれ、法学を学んで司法官見習い実習生になったが、眼病のために断念し、哲学に転じた。1861年失明するも学位を取得、1863年よりベルリン大学で哲学と経済学を講ずる。カント主義者として出発したが、のちには形而上(けいじじょう)学に反対して「現実哲学」を唱え、自然科学と両立しうるような世界の包括的説明を目ざした。しかし意識の活動を機械的な過程ととらえるその認識論は、素朴な唯物論的実証主義にとどまり、宇宙の進化を原初的存在の発展とみなす理論は独断的形而上学の水準を出ていない。宗教や神秘主義を攻撃して社会主義に近づく反面で、共感の感情に基づく道徳を説き、資本家と労働者の利害は自由競争によって調停されうると主張して、マルクスには反対した。愛国主義者、反ユダヤ主義者として大衆受けし、一時期ドイツ社会民主党にも影響を与えたが、1877年には大学を追われ、また『反デューリング論』でエンゲルスに徹底的に批判されるなどあって、晩年には孤立し、失意のうちにポツダムで没した。主著に『自然弁証法』(1865)、『批判的哲学史』(1869)、『国民経済学と社会主義の批判的歴史』(1871)、『ユダヤ人問題』(1881)などがある。
[藤澤賢一郎]
『エンゲルス著、粟田賢三訳『反デューリング論』(岩波文庫)』
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