江戸後期の長崎オランダ商館長。漢名を道冨。アムステルダム出身。1799年(寛政11)7月、出島(でじま)商館の書記として長崎に赴任、1803年(享和3)ワルデナール商館長離任のおり、その才幹を認められ27歳の若さで商館長となった。彼の在任中、本国はフランスに併合され、フランスに敵対するイギリス勢力によりオランダ船の日本渡航は脅かされ、11年(文化8)にはイギリス軍にジャワ島が占領されて出島商館はまったく孤立した。13年、英人総督ラッフルズは使船を長崎に送り、出島商館の引き渡しを迫ったが、彼はこれを断固拒絶してオランダ商館を死守した。またこれより先、1804年にはロシア使節レザノフが通商を求めて長崎に来航し、08年には英国船フェートン号狼藉(ろうぜき)事件が起こったが、彼は日本の外交当局を援助し、前記13年の英国使船長崎来航の際の適切な処理とともに、対外関係の緊張緩和と、この時期の日本に対する外圧の回避に貢献した。14年にオランダがフランスの支配を脱し、ジャワ島も返還され、17年にようやくオランダ船が長崎に来航したので、彼は同年12月、日本を去った。この間、滞日19年、商館長在任14年にわたり、3回の江戸参府を行った。日本官憲との友好的関係の維持に努めるとともに、フランソア・ハルマの蘭仏(らんふつ)辞書を底本として、通詞の中山時十郎や吉雄権之助(よしおごんのすけ)らの協力を得て、1816年『蘭日辞書』(『道訳波留馬(どうやくハルマ)』『長崎ハルマ』)を完成させ、また幕府の要望により通詞にフランス語教授を行うなど、文化交流の面でも大きな役割を果たした。帰国後『日本回想録』(1833)を刊行した。
[加藤榮一]
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(松田清)
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オランダの長崎商館長。日本名は道富で,ズーフ,ヅーフとも書かれた。1798年ジャワに到着,東インド会社の下級商務員となる。99年(寛政11)長崎商館書記として来日。翌年再び来日した後,1801年(享和1)荷倉役,03年商館長に昇進。このころナポレオン戦争のため本国はフランスに占領され,ジャワとの連絡も途絶したため,日本貿易はアメリカ船を雇い入れて,細々と続けられていた。04年(文化1)ロシア使節レザノフが長崎に来航して通商を求め,08年イギリス船フェートン号が長崎港内で乱暴を働くなど,多難な時期に当たった。オランダ船の来航もやみ,長崎はアジアでイギリスが占領しない唯一の商館となった。17年に帰国するまで,ドゥーフは通詞の援助を得てハルマの蘭仏辞書をもとに蘭和辞典《ドゥーフ・ハルマ》(《長崎ハルマ》)を編纂した。本国に帰る途中難破し,いっさいの資料を失ったが,帰国後《日本回想録》(《ヅーフ日本回想録》。異国叢書所収)を出版した。
執筆者:永積 洋子
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…《ズーフ・ハルマ》ともいう。長崎の出島に滞在したオランダ商館長H.ドゥーフがF.ハルマの蘭仏辞典によって,オランダ通詞たちを指導・督励して,1812年(文化9)編纂を開始。完成はドゥーフ帰国後の1833年(天保4)であった。…
…
[幕末]
1807年ロシアのフボストフとダビドフはサハリン(樺太)と択捉(えとろふ)島を襲い,番人を拉致して箱館奉行あてに書簡を置いていった。これがフランス語であったため,幕府はオランダ商館長H.ドゥーフに翻訳を依頼するとともに,オランダ通詞本木庄左衛門(1767‐1822),馬場佐十郎に命じてドゥーフからフランス語を学ばせた。これが公式のフランス語学習の初めである。…
※「ドゥーフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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