フェートン号事件(読み)フェートンゴウジケン

デジタル大辞泉 「フェートン号事件」の意味・読み・例文・類語

フェートンごう‐じけん〔‐ガウ‐〕【フェートン号事件】

文化5年(1808)英国軍艦フェートン(Phaeton)号がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員を捕らえ、食糧薪水を強要した事件責任をとって長崎奉行松平康英は自刃した。

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精選版 日本国語大辞典 「フェートン号事件」の意味・読み・例文・類語

フェートンごう‐じけんフェートンガウ‥【フェートン号事件】

  1. ( フェートンはPhaeton ) 文化五年(一八〇八イギリス軍艦フェートン号が長崎入港、オランダ商館員を捕えて薪水、食糧などを強要し、乱暴を働いて去った事件。長崎奉行松平康英は自刃、当番の肥前藩主も逼塞となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「フェートン号事件」の意味・わかりやすい解説

フェートン号事件 (フェートンごうじけん)

1808年(文化5)8月,イギリス船フェートンPhaeton号が長崎で起こした事件。同船は,オランダ国旗を掲げて入港し,欺かれて出向いた長崎奉行所役人,通詞,オランダ商館員を襲って商館員2人を捕らえ,さらにボートを下ろして長崎港内を乗り回し,捕らえたオランダ人を人質として水と食料を要求し,結局,水と野菜と肉を引換えに人質を釈放して長崎から退去した。フランス革命後,オランダ共和国はフランス軍に侵入されてバタビア共和国となり,フランスと同盟を結んでイギリスと敵対関係に入ったため,イギリスは東アジアにおけるオランダの属領とその商権を奪うため活動していた。長崎を襲ったのもその一環であったが,当時長崎警備の当番であった佐賀藩は少数の守備兵しか置いておらず,まったく応戦できなかった。事件の責任を負って長崎奉行松平康英切腹し,佐賀藩主も逼塞(ひつそく)の処分をうけた。蝦夷地でのロシアとの紛争のさ中に起こったこの事件に驚いた幕府は,江戸湾防備に着手し,イギリスへの警戒心を強め,のちの薩摩宝島事件とともに異国船打払令発布一因となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フェートン号事件」の意味・わかりやすい解説

フェートン号事件
ふぇーとんごうじけん

1808年(文化5)長崎に侵入したイギリス軍艦による狼藉(ろうぜき)事件。ナポレオン戦争によりフランスに併合されていたオランダと交戦国の関係にあったイギリスの軍艦フェートン号Phaeton(艦長ペリューReynolds Pellew大佐)が同年10月14日(和暦8月15日)オランダ国旗を掲げて長崎に入港、これを蘭船(らんせん)と誤認して、長崎奉行(ぶぎょう)所役人・通詞(つうじ)らとともに出向いたオランダ商館員2名を捕らえ、湾内を探索したうえ、薪水(しんすい)・食糧を強要して乱暴をはたらいた。当時、長崎警固の任にあった佐賀藩兵は1000余名のところ、実在100余名にすぎず、日本側はこれに施す策もないまま、同月17日に、みすみす同艦を立ち去らせてしまった。その夜、時の長崎奉行松平康英(やすひで)は切腹自殺した。この事件は当時の為政者に深刻な衝撃を与え、幕府の海防政策強化を促し、後の異国船打払令(1825)発布の契機となった。

[加藤榮一]

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百科事典マイペディア 「フェートン号事件」の意味・わかりやすい解説

フェートン号事件【フェートンごうじけん】

1808年英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し,オランダ商館員から食糧・薪水を奪った事件。ナポレオン戦争における英・蘭の対立の結果である。長崎奉行松平康英は責任をとって切腹。以後英国船の来航が多く,幕府は1825年異国船打払令を出すに至った。
→関連項目佐賀藩

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェートン号事件」の意味・わかりやすい解説

フェートン号事件
フェートンごうじけん

文化5 (1808) 年8月 15日イギリス軍艦『フェートン』号が突如長崎港に侵入した事件。オランダ商船を捕獲する目的で,東インド総督ミントーの政策を受けてイギリスの『フェートン』号がオランダ国旗を掲げて長崎に来港,艦長ペリュー大佐は,オランダ商館員を逮捕し,長崎奉行に飲料水と薪,食糧などを供給するよう要求した。奉行は要求をいれて,燃料,食糧を供給することと引替えに,拘束された人員を釈放返還させ,『フェートン』号は退去して事なきを得た。この事件の責任を感じて奉行松平康英は自決。蘭学者で奉行所鉄砲方高島秋帆らは,この事件を通じて開国の必要を上申したがいれられず,江戸幕府は文政8 (25) 年いわゆる異国船打払令を出して鎖国と海防の強化に力を注ぐことになった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「フェートン号事件」の解説

フェートン号事件
フェートンごうじけん

1808年(文化5)長崎湾内にイギリス軍艦フェートン号が侵入した事件。当時オランダはイギリスと戦争状態にあるナポレオンの占領下で,フェートン号もバタビアから長崎におもむくオランダ船の攻撃を目的としていた。オランダ国旗を掲げて長崎に入港した同号は出迎えた商館員を捕らえ,港内にオランダ船がいないことを確認すると,日本船・中国船を焼き払うと脅迫して食料・薪水を要求。同号は3日後に退去したが,長崎奉行松平康英(やすひで)は切腹,また当時の警備担当藩であった佐賀藩主鍋島斉正(なりまさ)も閉門100日間の処罰をうけた。この事件は異国船打払令発令の一要因となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「フェートン号事件」の解説

フェートン号事件
フェートンごうじけん

1808(文化5)年,イギリス軍艦の長崎侵入事件
イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に侵入し,オランダ商館員2名を捕らえて人質にし,薪水・食糧を強要して退去した。事件後,長崎奉行松平康英 (やすひで) は切腹。幕府は海防を強化し,1825年異国船打払令を発した。

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世界大百科事典(旧版)内のフェートン号事件の言及

【肥前国】より

…そのため藩主鍋島斉直は同年11月に塞を幕府から命じられた。フェートン号事件は大きな影響を与え,なかでも,佐賀藩は鋭意軍備の増強に力を入れた。 1838年(天保9)に唐津藩預所で総庄屋対総小前層という形態での村方騒動が発生した。…

※「フェートン号事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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