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スイス系フランス人の舞踊家,振付師。1743年パリのオペラ・コミック劇場でデビュー,54年《中国の祭》を上演。リヨン,パリ,ロンドン,シュトゥットガルト,ウィーン等各地を遍歴し,約150のバレエを振り付けたが,今日一部の脚本と音楽が残されているだけである。バレエの改革者として重要で,著書《舞踊とバレエについての手紙》(1760)に述べられた理論は今日いまだに有意義である。イギリスの俳優ギャリックと親交を結び,その教えを受けて,バレエ・ダクシヨンballet d'actionを創始した。これは歌や台詞を使わず,黙劇的演技(マイム)により物語の筋や劇的行為を表現するもので,今日の舞台芸術としてのバレエの基本形となった。
執筆者:久保 正士
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フランスの舞踊家、振付師。パリに生まれる。オペラ座でルイ・デュプレに学ぶ。ダンサーであった時期は短く、27歳から振付師となり、生涯をバレエの改革に努めた。彼の主張はテクニック至上主義のバレエに対する反論であり、舞踊によっていかに演劇的世界が表現できるかにあった。当時イギリスでマイム芸術の第一人者といわれた名優D・ギャリックと親しくしたのもこのためであった。仮面や紋切り型の衣装を排し、身ぶりによるバレエ・ダクションballet d'actionを実践した。1754年ロンドンで『中国の祭り』を上演、60~67年シュトゥットガルトで、その後ウィーンを中心に活躍、76年パリ・オペラ座のバレエ・マスターとなったが、81年イギリスに亡命、1810年故国に戻り没した。著書『舞踊とバレエについての手紙』(1760)に彼の理論が盛られている。
[市川 雅]
『小倉重夫訳『舞踊とバレエについての手紙』(1974・冨山房)』
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…その後,ペクールLouis Pécourt(1653‐1729),さらにデュプレLouis Dupré(1697‐1774)らが舞踊の技術と様式を発展させてきたが,1720年代にはそれまで優位を占めてきた男性舞踊家に伍して,カマルゴおよびサレMarie Sallé(1707‐56)の女性舞踊手が人気を競った。バレエの改革者ノベールがオペラ座で働いた期間は短かったが,その改革はガルデル兄弟Maximilien Gardel(1741‐87),Pierre G.(1758‐1840)により引き継がれた。1830年オペラ座は私企業的組織に改められ,その支配人となったベロンVéron博士の積極的な行動とともに一気にバレエ・ロマンティック全盛時代をよびおこした。…
…これは重く長い衣装の制約を受けていたためで,衣装の長さを縮め,踵のない靴を採用したカマルゴの出現によって,女性舞踊家は初めて跳躍し,敏速な足の動きを見せるのである。 カマルゴに続いて18世紀の後半,ノベールが現れバレエの根本を改革した。彼によって初めてバレエは,今日の原型をもつにいたった。…
…その中心地となったのは,パリとモスクワおよびペテルブルグであった。 18世紀半ばころに,パリのノベールを指導者として〈バレエ・ダクシヨン〉が創始された。これはバレエの舞台から台詞と歌を排除し,舞踊とパントマイムをもっぱらオーケストラが支えるといった近代バレエの原型である。…
※「ノベール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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