改訂新版 世界大百科事典 「婦人参政権運動」の意味・わかりやすい解説
婦人参政権運動 (ふじんさんせいけんうんどう)
女性の政治的権利獲得をめざす運動。
概観
女性は20世紀になってはじめて政治的権利を獲得したのではない。フランスでは,三部会が開設された1302年以来,貴族階級の一部の女性や高位の尼僧は選挙権をもっていたのであり,フランス革命の直前,175年ぶりに三部会が召集されたときも,このような女性たちはその権利を行使した。女性が女性であるという理由で選挙権を失ったのは,フランス革命のときであった。イギリスでも同様で,中世以来17世紀に至るまで,特権階級の女性は選挙権を行使していた。イギリスの法律に参政権は男性のみと明記されたのは,1832年の選挙法改正のときであった。両国の例が示すように,女性は過去において身分的特権と結びついた政治的権利を保持していたのであるが,市民革命によって古い権利を失っただけでなく,新しい権利からも排除された。この意味で市民革命は,女性に対する差別を強化したといえる。だが他方,市民革命は婦人参政権に理論的基礎をあたえたのであって,そこで主張された人権思想,平等主義は,女性が男女同権を要求するための論拠となった。
女性に参政権を拒否する理由としては,女性は男性よりも体力や知力が劣る,妻が参政権をもち夫と政治的意見が異なれば家庭は混乱する,女性の利益は男性(父親や夫)の利益に含まれるから女性に参政権は不要である,女性は家庭を守るもので政治に口を出すべきではない,神は女性を男性に服従するものとしてつくった,といったことがあげられた。だがこれらの理由は,いずれも男女差別の現状と差別的感情の正当化にすぎない。婦人参政権は民主主義の原則に照らせば,反論の余地のない権利であり,しかもそれの獲得は,婦人運動の目標としては明確かつ具体的であったために,多くの女性がこの運動に情熱を傾けた。
女性解放の歴史のなかで,婦人参政権運動はもっともめざましい運動であった。しかし婦人参政権の問題はその獲得によって解決したのではない。参政権の実現したどの国においても,選挙で女性が男性と同数になるほど選出されていないことからわかるように,この権利を実効あるものにするには,女性解放の他の部分への取組みがなされなければならないのである。
歴史
婦人参政権運動はイギリス,アメリカ合衆国でもっともねばり強く進められた。
イギリス
イギリスでは,17世紀の市民革命期に女性の国政への参加を求める請願が議会に提出され,18世紀の末にはM.ウルストンクラフトが《女性の権利の擁護》(1792)で婦人参政権について発言をし,19世紀にはいって,トンプソンWilliam Thompson(1785-1833)が《人類の半数である女性の訴え》(1825)を書いてそれを要求し,チャーチスト運動のなかでも男女の同権が主張された。だが婦人参政権運動が本格化したのは1865年以降であった。同年,婦人参政権を公約の一つとしたJ.S.ミルが下院議員に当選し,66年には1499人が署名した婦人参政権の請願がミルの手を通じて下院に提出された。しかし,翌年196対73で否決された。このような状況のなかで,1865年に最初の婦人参政権委員会がマンチェスターにつくられ,続いてロンドンをはじめ各地に婦人参政権委員会がつくられ,〈全国婦人参政権協会〉の設立へと発展した。なおミルは68年の総選挙で落選したが,69年に《女性の隷従》(《女性の解放》とも訳される)を発表した。そして同年,女性は地方自治体の選挙権を,70年に教育委員会の選挙権を獲得した。
婦人参政権に対する政府の頑迷な姿勢が続くなかで,運動は二つに分裂し,97年にはM.G.フォーセットを中心に〈婦人参政権協会全国同盟National Union of Women's Suffrage Society(NUWSS)〉が,1903年にはE.パンクハーストとその娘クリスタベルが指導する〈女性社会政治同盟Women's Social and Political Union(WSPU)〉がマンチェスターに結成された。前者の女性はサフラジストsuffragistとよばれ,穏健な運動を,後者はサフラジェットsuffragetteとよばれ,戦闘的運動を展開した。05年,クリスタベルが自由党の党大会で質問をし逮捕された事件を皮切りに,サフラジェットたちは婦人参政権を要求して,首相官邸の鉄柵に体を縛りつけたり,投石,放火,ウィンドーの破壊,美術品の破壊,さらに1913年にはデービソンEmily Wilding Davisonという女性がダービーのレースの際国王ジョージ5世の持ち馬に身を投げて自殺するという,激しい戦術をとった。彼女たちは逮捕されるとハンガー・ストライキにはいり,これに対して政府は強制加食をしたり,健康が悪化すると釈放し回復すると再逮捕するという,いわゆる〈猫とねずみ法Cat and Mouse Act〉を制定したりした。この運動の過程で,ロンドンのスラムであったイースト・エンドの女性労働者を組織し婦人参政権の宣伝をしたため,E.パンクハーストの娘シルビアは中流以上の女性たちによる運動を考えていた母親と姉と戦術的なくいちがいができ,規律違反でその組織はWSPUから除名された。
第1次大戦中は,どちらの組織も参政権運動をひかえ,戦争に積極的に協力した。その結果,1918年には〈人民代表法Representation of the People Act〉によって30歳以上の女性に選挙権が認められ,28年には21歳以上の男女に選挙権が認められるようになった。
アメリカ
アメリカ合衆国では,植民地時代には女性に選挙権を認めていた州もあったが,独立後の1787年,フィラデルフィアの憲法会議において婦人参政権が論争の的になり,連邦憲法ではこれを規定せず,選挙資格は各州の自由にまかせることになったため,選挙権は白人男性に限定された。しかし男女平等は,ウルストンクラフトの思想を普及したC.B.ブラウン,T.ペイン,F.ライト,S.M.フラーなどによって主張された。
婦人参政権運動は1830年代の奴隷廃止運動のなかから生まれた。大衆の前で奴隷制廃止を訴えたグリムケ姉妹は,自分たちが女性であるためにその行為を非難されたことを知り,奴隷の権利とともに女性の権利を要求するようになった。L.C.モットとE.C.スタントンも,同様な経験から女性解放の必要性を痛感し,48年,スタントンたちはニューヨークのセネカ・フォールズで女性の大集会を開いた(セネカ・フォールズ会議)。これはアメリカ合衆国における婦人参政権運動の開始を告げる集会となり,ここで採択された〈所信宣言〉には,婦人参政権をはじめ,女性解放のための諸要求が列挙された。
南北戦争後,憲法修正第14条,第15条によって,黒人男性には参政権は保障されるが女性には認められないことを知り,スタントンとS.B.アンソニーは,女性の解放より黒人奴隷の解放を優先させる運動家たちと分裂する。運動の方法も,彼女たちは,はじめは各州憲法の修正によって婦人参政権の実現を図ろうとしたが,アンソニーの提案により,連邦憲法の修正を求めることにし,そのために1869年,〈全国婦人参政権協会National Woman Suffrage Association〉(NWSA)を結成した。他方,黒人の権利を優先させることを認めたL.ストーンは,各州での運動を重視し,同年秋,〈アメリカ婦人参政権協会American Woman Suffrage Association〉(AWSA)を設立した。この二つの組織は,90年には合併して〈全米婦人参政権協会National American Woman Suffrage Association〉(NAWSA)となり,両方の目的の実現をめざすことになった。この組織は,スタントンやアンソニーの死後,ショー Anna Howard Shaw(1847-1919),C.C.キャットに引き継がれ,連邦憲法修正の運動を続けた。またこの組織で活躍し,のち1913年に〈全国女性党National Woman's Party〉を結成したポールAlice Paul(1885-1977)は,同様に連邦憲法の修正を求め,活動をした。このような運動の結果,1869年にワイオミング州で憲法が修正されたのをはじめ,他の州もそれに続き,1919年には婦人参政権を規定する〈スーザン・アンソニー修正〉が議会を通過し,翌20年にはそれが憲法修正第19条として発効した。
フランス
フランスでは大革命のときにO.deグージュが〈女性と女市民の権利宣言〉(1791)を発表したが,その後,参政権運動は活発に展開しなかった。1848年の二月革命に,P.V.コンシデランは,憲法委員会に男女平等の政治的権利を要求し,ニボワイエEugénie Niboyetの発行する新聞《女性の声La Voix des femmes》では,婦人参政権のキャンペーンがなされ,49年にドゥロアンJeanne Deroin(1810ころ-94)は,女性が選挙権をあたえられなかったことに抗議して立法議会の議員に立候補した。1870年のパリ・コミューンの激動が去ると,婦人参政権運動は大ブルジョアのドゥレームMaria Deraismes(1828-94)の指導の下に移った。彼女は,1870年に〈女性の権利協会Association pour le Droit des Femmes〉として結成され,後に〈女性の運命を改善する会〉と改称した組織の指導者となり,政治的権利より民法上の権利に重点をおいて運動をした。今世紀にはいり,婦人参政権の要求は幾度か議会に提出されたが否決され,第2次大戦終結の前年,1944年の法律によって認められた。
ドイツ
19世紀後半に発生してきたドイツの婦人運動は,教育,労働に重点をおき,婦人参政権は社会主義者の間で主張された。A.ベーベルは《婦人論》(1879)で婦人参政権を説き,ドイツ社会民主党は1895年,帝国議会にその法案を提出した。だが,20世紀にはいり,1902年に女性の政治的権利獲得を目的とする組織〈ドイツ婦人参政権協会Deutscher Verband für Frauenstimmrecht〉が,アウクスブルクAnita Augsburg(1857-1943)によって結成され,イギリスのサフラジェットの戦術の影響を受けて,運動が進められた。そしてドイツの女性が参政権を獲得したのは,第1次大戦後の19年であった。
日本
日本では,明治初期に,《明六雑誌》で福沢諭吉,森有礼,津田真道などが男女同権を論じ,自由民権運動のなかで,植木枝盛が婦人参政権を主張し,岸田俊子,福田英子が男女平等の演説をした。しかし女性は,1888年に公布された〈市制町村制〉によって市町村会議員の選挙の有権者から排除され,89年に〈大日本帝国憲法〉と同時に公布された〈衆議院議員選挙法〉によって国会議員の選挙権,被選挙権から除外され,さらに90年に公布された〈集会及政社法〉によって政談集会に出席することも,その発起人になることも,また政治結社に加入することもできなくなった。政府は女性の政治活動を禁じたのである。
第1次大戦が終結し,国内にはデモクラシーの高まりがみられ,国外では先進諸国で婦人参政権が実現しつつあるという状況のなかで,平塚らいてう,市川房枝は1919年,〈新婦人協会〉の結成を発表し,奥むめおは治安警察法第5条の修正を求める請願を第42帝国議会に提出。1900年に公布された治安警察法は,集会及政社法を引き継いだもので,第5条では,女性の政治結社への加入,政談集会への出席,その発起人になることを禁じた。第42議会が解散になったため,彼女たちは第44議会に同法の改正と,男女共通の普通選挙の請願を提出し,22年の第45議会で第5条の改正は実現した。
一応の成功をおさめたあと,婦人参政権への一般の関心も高まり,あらたな組織がつくられた。〈新婦人協会〉は〈婦人連盟〉に改組され,1923年には,団体の連合体として〈婦人参政同盟〉が結成された。また,関東大震災の救援活動を通じて集まった婦人団体が〈東京連合婦人会〉を組織し,その政治部が母体となって,24年に〈婦人参政権獲得期成同盟会〉(25年婦選獲得同盟と改称)が成立した。〈期成同盟会〉は,久布白(くぶしろ)落実,市川房枝を中心に活動を進め,婦人結社権,婦人公民権(地方政治への参政権),婦人参政権の3案を第50議会(この議会で普通選挙法が成立した)に提出し,以後毎議会にそれらを提出した。
昭和にはいり無産政党はそれぞれ女性の外郭団体をつくるが,労働農民党系の〈関東婦人同盟〉,日本労農党系の〈全国婦人同盟〉,社会民衆党系の〈社会民衆婦人同盟〉が対立していた。そこで婦人参政権の獲得だけを目標とする婦選獲得同盟が中心となり,無産婦人団体を含めて7団体が,30年に〈全国日本婦選大会〉を開催した。こうした努力にもかかわらず,婦人参政権法案は両院を通過せず,33年からは議会に上程されることもなくなった(婦人公民権法案は1931年に衆議院を通過したが,貴族院で阻止された)。日本は戦争への道を進み,女性は官制の団体に組織され,婦人参政権運動の運動家も戦争に協力させられた。
敗戦を迎え,戦後改革のなかで明治以来の課題であった婦人参政権は実現した。45年10月,マッカーサーの五大改革指令により婦人参政権付与が指示され,同年12月,20歳以上の男女の衆議院議員の選挙権,25歳以上の男女の被選挙権に関する法案が両院を通過して公布された。46年4月10日,日本の女性ははじめて選挙権を行使し,39人の婦人議員が国会に進出した。また,46年9月には地方議会への参政権も獲得した。
→女性運動
執筆者:水田 珠枝
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