改訂新版 世界大百科事典 「長老派教会」の意味・わかりやすい解説
長老派教会 (ちょうろうはきょうかい)
Presbyterian Church
16世紀の宗教改革運動によって生まれた,カルビニズムに基づくプロテスタントの一派。〈プレスビテリアン・チャーチ〉ともいう。教会組織に長老制度を採用しているところから,この名称が生まれた。すなわち末端の各個教会においては牧師のほかに教会員から選出された一定数の長老presbyterが運営に参加し,それらの教会が地方ごとに長老会を組織し,さらに数地方の長老会をもって大会がつくられ,その上に全国総会がおかれるという,階層的な教会組織をつくっているのが特徴的である。
スコットランドではJ.ノックスの率いた宗教改革によって,1560年その国教会は長老派教会となったが,同時期のイングランドではカートライトThomas Cartwrightなどの少数の支持者を得たにすぎなかった。しかし17世紀に入りピューリタンの主流を長老派が占めるようになり,ピューリタン革命勃発後はさらに勢力を伸ばし,ことにスコットランドからの強い圧力のもとで,1643年長期議会は〈厳粛な同盟と盟約〉によってイングランドへの長老派教会の導入を約束し,46年〈ウェストミンスター信仰告白〉が定められた。これは現在でも長老派教会の信仰基準とされている。長老派の台頭は議会軍を拠点とする独立派の反発を招き,48年末の〈プライド大佐の追放〉によって長老派は革命の中心勢力の座を追われ,イングランド国教会に長老派教会を採用する道は閉ざされた。このような経過から長老派という呼び名は,ピューリタン革命における保守派ないし穏和派をもさして用いられたが,60年の王政復古後は急速に国教会に吸収され,非国教徒の少数派教会として存続した。
執筆者:今井 宏 今日,最も有力なのはアメリカの長老派教会であり,植民地時代にスコットランドと北アイルランドからの移民とともに渡来した。プリンストン大学は長老派の設立による大学で,その初代学長ウィザースプーンJohn Witherspoonはアメリカ独立宣言に署名した唯一の牧師でもあり,それ以来,長老派の人々と政治との関係は浅くない。たとえば第1次世界大戦当時の大統領T.W.ウィルソンは長老派牧師の息子で,プリンストン大学学長からニュージャージー州知事となりホワイト・ハウスに入っている。その学生の一人がやはり長老派牧師の長男で,のちに国務長官となったJ.F.ダレスである。南北戦争のとき奴隷解放問題をめぐっていわゆる北長老派教会と南長老派教会に分裂して今日にいたっているが,現在再合同をめざして動きつつある。両方合わせて約300万の教会員であり,多くはないが,アメリカにおける文化的・社会的影響力は小さくない。
日本では1941年まで存続した日本基督教会に代表され,植村正久,高倉徳太郎などの牧師,神学者を輩出した。彼らは自活自給の教会と神学校を設立したが,北長老派との関係が深く,明治学院,東北学院,フェリス女学院などは同派のミッション・スクールである。一方,南長老派系の神戸神学校の卒業生に賀川豊彦がおり,金城学院や四国学院はこの派の学校である。日本基督教会は第2次大戦中に日本基督教団に合同加入したが,戦後その一部は脱退し,日本基督教会(いわゆる新日基)を結成した(1951)。そのほかにもいくつかの長老派系の教派がある。
→カルビニズム
執筆者:古屋 安雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報