ロシアの詩人。由緒ある貴族の家柄に生まれる。モスクワ大学在学中から早熟な才能を示す。卒業後外務省に入り(1821)、外交官としてミュンヘン、トリノで17年間勤務し、外国滞在は22年に上った。したがって祖国の文壇との接触が少なく、帰国後も外国文書検閲官の職にあったので、終生詩人としての意識は希薄で、世俗的には社交界の毒舌家、汎(はん)スラブ主義を掲げるスラブ主義者として聞こえた。詩壇への本格的登場は、1836年プーシキンの主宰する『同時代人』誌に「ドイツから送付された詩」と題して発表された24編の作品によるが、50年ネクラーソフが注目するまで文壇の関心をひかなかった。54年に出たツルゲーネフ編集の最初の小詩集も少数の理解者を得たにとどまり、結局プーシキンに並ぶ大詩人と認められるに至ったのは詩人の死後、自らの始祖をチュッチェフにみいだした世紀末のシンボリストの出現によってである。作品はほとんどが短詩であり、極端なものは数行を出ず、「ロシアは頭ではわからない、信ずることができるだけだ」のようにアフォリズムに近い。恋や自然をテーマとする作品に秀作が多く、そこにはフランス革命後、信仰を失って異常肥大し、堕落した近代人の分裂と矛盾に悩む自我が色濃く投影している。荒れ狂う自然の猛威に擬せられる内面の嵐(あらし)、春にすでに潜む死の影、心が結び合うのではなく決闘する絶望的な恋、真昼の現実を進む若い世代がまぶしく、夜の闇(やみ)に避難する老いの世代といった二元的対極構造を軸に展開する詩は、ドイツ観念論哲学の影響が著しく、弁証法的思考方法を身につけた当時のロシア知識人の内省的ロマン主義的傾向を独自に反映したものである。チュッチェフは、断片的形式に壮大な形象、叙情詩になじまぬ「思想的・哲学的形象」を消化吸収して成立した新たな流派を形成したといえよう。
[島田 陽]
ロシアの詩人。モスクワ大学卒業後,外交官として約20年を西ヨーロッパで送り,1844年帰国後検閲官に転じて生涯を終えた。300余編の抒情詩を残したが,祖国の文学界と離れていたこともあって,生前は,N.A.ネクラーソフ,ツルゲーネフ,フェートらきわめて少数の理解者しか得られず,自身も詩人の自覚が希薄であった。そのため,むしろ軽妙な警句を吐く社交界の獅子,西ヨーロッパに幻滅して祖国に過大な期待をよせるスラブ派の人物として知られた。詩人としては,主としてドイツ・ロマンティシズムの影響下に成熟し,その詩的世界は,限界ある人間存在を圧倒しつつも魅惑せずにはおかない生のカオス,自然,時間,不倫の恋などの諸相を,二元的・対極的形象を駆使してうたいあげ,擬古典的な語彙(ごい),スタイルながらアフォリズムに収斂(しゆうれん)するがごとき論理的構造と象徴性を有する。世紀末に象徴派の詩人たちが自らの始祖をそこに発見し,大詩人の列に加えたゆえんである。
執筆者:島田 陽
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