フクバラハップ(その他表記)Hukbalahap

デジタル大辞泉 「フクバラハップ」の意味・読み・例文・類語

フクバラハップ(Hukbalahap)

第二次大戦中、フィリピンで組織された抗日ゲリラ組織。1942年に結成戦後フクボン人民義勇軍)と改称土地改革・民族独立を要求して政府軍と抗争したが、1955年までに鎮圧された。フク団。→フィリピン共産党

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「フクバラハップ」の意味・読み・例文・類語

フクバラハップ

  1. ( Hukbalahap 抗日人民軍の意のタガログ語略称 ) 太平洋戦争中、フィリピンの農民が組織した抗日ゲリラ組織。一九四二年社会党共産党員の指導により中部ルソンで結成。戦後はフクボン(人民解放軍)に改称・改編。土地改革・民族独立を宣言して政府に対して武装反抗を続けたが、マグサイサイの巧妙な作戦で鎮圧された。フク団。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「フクバラハップ」の意味・わかりやすい解説

フクバラハップ
Hukbalahap

フィリピン共産党(1938年社会党と合併)が太平洋戦争の勃発と日本軍の侵攻契機に,1942年3月29日,ルソン島中部のヌエバ・エシハ州カビヤオにおいて結成した抗日人民軍武装ゲリラ組織のこと。フクバラハップとは抗日人民軍のタガログ語名を略称したものである。最高司令官にはタルクが就任した。ゲリラ兵士の主力となったのは,社会党の指導下にあった全国農民組合(KPMP)の小作農貧農,社会党の大衆組織である労働者総同盟(AMT傘下の労働者であり,こうして日本軍の侵攻直後,中部ルソンの貧農,小作農,労働者の一大結集が実現した。戦争末期,武装ゲリラは2万に達した。フクバラハップと日本軍・かいらい政府軍との交戦回数は1200回にのぼり,死傷者2万5000の損害を与え,日本軍による農村支配をきわめて困難ならしめた。戦後,フクバラハップは人民解放軍(HMB)と名称を改め,同じくフィリピン共産党の軍事組織として国内解放のための武力闘争に転じた。50年ころには体制危機をもたらしたが,しだいに勢力を失い,54年タルクは投降した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フクバラハップ」の意味・わかりやすい解説

フクバラハップ
ふくばらはっぷ
Hukbalahap

日本占領時代フィリピンで結成された抗日人民軍Hukbo ng Bayan Laban sa Haponの略称。日本ではフク団ともよばれる。1942年3月29日、ルソン島中央部の森林の中で結成された。ルソン島中央部はフィリピンでもっとも小作率が高い地域で、30年代には社会党・共産党系の農民運動が盛んであった。フクバラハップはこれらの農民運動を中核に、マニラの労働者、進歩的知識人、中国人らが参加して結成され、日本軍への抵抗と地主制の打倒を目ざした。ルイス・タルクに率いられたその闘争力は抗日ゲリラ中最強で、45年1月アメリカ軍がルソン島再占領を開始したときには、ルソン島中央部はほとんど彼らの手で解放されていた。しかしフィリピンの地主勢力に味方するアメリカ軍は、マニラ占領と同時にフクバラハップの武装解除を命じ弾圧に乗り出した。

 第二次世界大戦後、フクバラハップは人民解放軍(HMB)と名称を改め、地主階級を基盤とする反共親米政権に武力抵抗を続けたが、1950年秋マグサイサイ国防大臣が登場して以後衰勢に向かった。

[池端雪浦]

『ルイス・タルク著、安岡正美訳『フィリピン民族解放闘争史』(1953・三一書房)』『W・J・ポメロイ著、木谷優梨子訳『比島フク団のたたかい 密林のゲリラ部隊』(1967・理論社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「フクバラハップ」の意味・わかりやすい解説

フクバラハップ

フィリピン,ルソン島中部を中心に活動するフィリピン共産党系の反政府・抗日武装集団。正称は抗日人民軍(フクバラハップはそのタガログ語の頭文字,略称フク団)。第2次大戦中の1942年3月,日本軍の侵攻を機にタルクがゲリラ組織として結成し,日本軍追放と地主制打倒を掲げて活動。戦後人民軍(フクボン)と改称し,1952年ごろ最大勢力に達したが,政府の平定作戦でほとんど壊滅し,タルクは1954年投降し,議長ラバも1964年逮捕された。以後1969年に新人民軍が誕生するまで反政府・武装闘争は中断した。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「フクバラハップ」の解説

フクバラハップ

フク団とも。タガログ語で抗日人民軍Hukbong bayan labansa Haponの略。1942年(昭和17)3月にフィリピン中部ルソン島で共産党を中心として結成された抗日武装ゲリラ組織。最高司令官はルイス・タルク。第2次大戦後は共産党の軍事組織として存続しフィリピン政府と対立,武装闘争を繰り広げた。50年には人民解放軍(HMB)と改称,このころ最盛期を迎えたが,国防相にマグサイサイが就任して以降の鎮圧作戦によりしだいに衰え,54年には共産党の内部対立からタルクが政府に投降した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「フクバラハップ」の解説

フクバラハップ
Hukbalahap

略称フク団。「抗日人民軍」の意。フィリピン中部ルソンの左翼系農民運動を背景に,日本軍侵攻後の1942年抗日ゲリラとして結成された。戦時中から地主と対立,戦後,土地改革を訴えたが議会進出を政府に阻まれ内戦となった。50年に大攻勢に出るが,アメリカの協力を得た政府軍に敗北,54年幹部タルクが投降してほぼ平定された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「フクバラハップ」の解説

フクバラハップ

太平洋戦争中の1942年,フィリピンのルソン島中部で組織された共産系の抗日義勇軍。フク団ともいう
労働者・農民が日本軍に抵抗するために組織した遊撃隊で,タルクを指導者として日本軍の支配に大きな打撃を与えた。戦後一時解散したが,1950年3月人民解放軍(フクボン)に再組織され,武力闘争をすすめたが,54年には崩壊した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フクバラハップ」の意味・わかりやすい解説

フクバラハップ

「フク団」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフクバラハップの言及

【フィリピン】より

…しかし,それはまったくの傀儡(かいらい)共和国だったので,反日ゲリラ活動はいっそう激化した。全国各地で結成されたおびただしい数のゲリラ組織は,その大半が連合軍西南太平洋司令部の指揮下に属する〈ユサッフェ・ゲリラ〉であったが,中部ルソンに根拠地を置いたフクバラハップは,それらとは独立に独自の目標,すなわち,日本軍の追放と地主制打倒の二つの目標を掲げて戦った。44年10月,アメリカ軍のレイテ島上陸を皮切りに,アメリカのフィリピン再占領作戦が猛烈な勢いで展開され,45年9月3日,日本軍は完全降服した。…

【マグサイサイ】より

…戦後の46年にリベラル党のサンバレス州選出下院議員となり,国防委員会議長などを務めた。49年以降フィリピンはフクバラハップによる内戦に直面し,未曾有の政治危機に遭遇した。マグサイサイは50年国防長官に任命されてフクバラハップ討伐の最高責任者となり,アメリカの経済的・軍事的援助の下に鎮圧に成功した。…

※「フクバラハップ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android