毛織物工業(読み)けおりものこうぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

毛織物工業
けおりものこうぎょう

毛織物を生産する工業。製造工程、用途などについては「毛織物」の項で取り扱い、本項においては、主としてこの工業の歴史について記述する。

ヨーロッパの毛織物工業

毛織物は、ヨーロッパ全域で、古くから家庭で共同体・首長のためや自家消費のために加工されていたが、その大半は未染色の粗野な織物であった。低地地方(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクなどを含む地方)では、ローマ占領時代からゴール人(アトレベート人)が染色毛織物をローマに輸出し、人気を博していた。
 西ヨーロッパの毛織物生産が新たな展開をみせるのは8世紀ごろのことである。庶民の日常の、自家製毛織物生産がしだいに発展し、地域内の週市(いち)に売り出されるようになり、それが中世都市の手工業に吸収され、どこでも中心的手工業の一つとして発展していった。このなかから、国際的商品として取引される上質毛織物(染色仕上げされた高級毛織物)を生産するフランドルなど低地地方の諸都市や、フィレンツェなどイタリア北部の諸都市が「商業の復活」とともに台頭してくる。[殿村晋一]
奢侈的高級毛織物
10世紀にイギリスの良質の羊毛を輸入して生産を拡大したブールジュを中心とするフランドルの毛織物は、12世紀には全ヨーロッパの商人の集まるシャンパーニュ大市やサン・ドニの大市で売りさばかれ、13世紀にはイタリア諸都市を経て東方に、ハンザ商人の手で北欧に運ばれたが、13世紀末にはフィレンツェに未染色・未仕上げの白布のまま輸出されるようになった。この白布は、フィレンツェ近在で組合アルテ・ディ・カリマーラに参加した仕上げ業者によって染色加工され、東方諸国に再輸出されたが、これはフィレンツェ産の毛織物(イギリスからの輸入羊毛を織布工に前貸しし加工させる問屋制前貸しによってつくられた)と並んで、香辛料など東方からの輸入品に対する対価物として重要な位置を占めるに至り、14~15世紀を通じて、ジェノバやベネチアの商業上の利益の多くをフィレンツェに引き寄せたのである。[殿村晋一]
大航海時代以後
アメリカ大陸の「発見」と東方貿易路の転換は、毛織物工業を、各国重商主義の盛衰を決定する重要産業に押し上げた。銀を代価とするアメリカ大陸植民地への毛織物の輸出は、当初スペインの毛織物工業の発展を促したが、16世紀の南ネーデルラント(フランドル、ブラバント)における薄手毛織物(ウーステッド)の生産の発展がスペインの毛織物工業を圧倒し、スペインによるこの地方の武力的制圧は、北ネーデルラントその他への織物業者の大量亡命とオランダの独立(1609)を引き起こした。独立後のオランダではライデンその他の諸都市で毛織物の織布が盛んに行われ、イギリスから輸入される白地広幅織物とともに、アムステルダムやロッテルダムで染色・仕上げされ、スペイン経由でアメリカ大陸に輸出された。スペイン植民地の銀はオランダ、イギリスに還流した。これは、17世紀の国際商業戦でオランダを優位にたたせた条件の一つとなった。[殿村晋一]
イギリスの毛織物工業
イギリスは、14世紀まではヨーロッパ経済圏の辺境に位置する後進的な原料羊毛の輸出国であったが、14世紀中ごろから毛織物工業が発達し、15世紀後半からはマーチャント・アドベンチュラーズ(冒険商人組合)の手でアントワープ(アントウェルペン)市場に未仕上げの白地広幅織物が集中的に輸出されるようになった。イギリスの毛織物工業は、大陸諸国と違って、ヨーマン(独立自営農民)や家内手工業者など小生産者がその担い手であったが、これら半農半工の織布工が近隣の市場目当てに行う副業的生産(農村工業)がしだいに膨らみ、15世紀末にかけて、都市クラフト・ギルドの毛織物工業を圧倒する勢いをみせてくる。この農村工業は、16世紀中葉ともなると、都市、バラborough、市場町、特権都市の外でその小営業を拡大し、日雇人journeymanや不熟練労働者を賃金労働者として雇用し、織機台数を増やし、比較的大きな経営規模をもつ富裕な織元を分出させ、商人資本による問屋制前貸し支配の網目を食い破る本質をしだいに明らかにしてくる。
 しかし、絶対王制下にあっての商・工・鉱業に及ぶ各種の規制が存在したほか、農村工業は紡糸・織布業が中心で、染色・仕上げについてはいくつかの都市業者に依存せねばならず、白地広幅織物の輸出もマーチャント・アドベンチュラーズの独占のもと、ロンドン経由で行わなければならなかった。このため、グロスターを中心とする南西部では商人織元による大規模な問屋制支配がみられた。しかし、17世紀前半までは未仕上げ織の生産地帯であったこの地域において、その後、4、5人の商人織元から仕事を与えられ、経営を拡大し、自らマニュファクチュア主に上昇する生産者が出現するに至り、商人織元も製造業者への転身を余儀なくされるようになった。
 東部は大陸亡命職人の影響を受け、薄手の毛織物(ウーステッド)の生産地として17世紀に発展し、ノリッジ市と周辺農村に問屋制度やマニュファクチュアの展開がみられた。ヨークシャー西部やランカシャー南東部を中心とするイングランド北西部では、小生産者型の発展が、ウーステッド製造を中心に、18世紀初頭に急速な展開をみせた。こうしたなかで、17世紀後半にはオランダの毛織物工業を追い越し、18世紀中葉には、コルベールの手厚い保護政策によって発展していたフランスの毛織物工業をも追い抜いて、イギリスは世界最大の毛織物工業国に成長したのである。加えてイギリスは、17世紀後半から始まる商業革命のなかで、金物・雑貨・麻などの工業製品の輸出や新世界産のタバコ・砂糖・香料のほか、インド産綿布の再輸出を加えて、近世ヨーロッパの国際商業戦を有利に戦い抜いた。
 かくしてイギリスは、毛織物工業にみられた資本主義的工業経営の母胎であるマニュファクチュアをさらに発展させ、工場制大工業をまず綿織物工業で、ついで毛織物工業でも実現した。この産業革命は18世紀末より北部ヨークシャーで始まり、19世紀にはリーズ、ブラッドフォード、ハリファックスなどの新興毛織物工業都市を誕生させたのである。[殿村晋一]

日本の毛織物工業


前史
ポルトガル船に次いでオランダ船が日本に輸入した羅紗(らしゃ)などの毛織物は、大名の陣羽織として、また鎖国後は武士や富裕な町人の羽織や合羽(かっぱ)として珍重された。江戸中期からは薄手・安価な毛織物の輸入が増加し、羽織・合羽のほか、帯地・打掛(うちかけ)・袋物などの素材として庶民一般にまでその利用が広まり、幕末・明治前期には薄地のモスリンが羅紗の2倍以上も輸入され、着物・帯・袴(はかま)の布地として流行した。江戸幕府も毛織物の国産化を企図し、1800年(寛政12)オランダと技術者の派遣、織機・羊の輸入を交渉したが成立せず、1804年(文化1)以後の中国(清(しん))からの技術・羊の導入の試みも失敗に終わった。[殿村晋一]
明治・大正期
明治初頭、1870年代から生活様式の洋風化・近代化が進み、洋服、とくに洋式軍隊の軍服や警察・官庁の制服のほか、鉄道員・教師の制服など軍・官需が急増し、毛織物の輸入額だけで総輸入額の20%程度に達していた。このため、明治政府は1876年(明治9)ドイツから技師を招聘(しょうへい)し、機械を導入(紡毛機・整紡機各6台、織機42台)し、同年官営千住製絨(せんじゅせいじゅう)所を設立したほか、模範工場としてその技術を一般に公開した。1881年には最初の民営工場として後藤毛織製絨所を設立した。1887年ころには民間の毛織物需要の増加にあわせて、東京と大阪にそれぞれ東京毛糸紡織株式会社と大阪毛布製造会社、大阪毛糸紡績会社が設立され、羅紗、フランネルを製造したほか、1889年には兼松(かねまつ)が神戸に「濠州(ごうしゅう)貿易兼松房次郎商店」を設立し、オーストラリアから原毛直輸入の道を開いた。日清(にっしん)戦争(1894~95)を契機とする軍需の激増、羊毛輸入税の撤廃、洋装化の民間普及、モスリン需要の増大などの理由が重なって、明治30年代には羊毛工業も成長期を迎えた。大阪毛斯綸(モスリン)紡織、東京モスリン(後の大東紡織)、日本毛織などが設立された。
 洋服着用が明治25年ごろには小学生にまで及び、「トンビ」と「マント」が流行し、明治30年代には、洋服を着ないと「実業家」とよんでもらえないというような状態になる。
 女子の服飾の洋風化はこれより少し遅れるが、大正期にかけて「毛織物の和服化」という形で和服用モスリン(メリンス)の需要が国内における友禅(ゆうぜん)加工の発達に伴って急増した。日露戦争(1904~05)後の好況に促され、東洋モスリン会社その他が新規参入し、設備の増設、力織機の採用も行われ、生産量も大正初年には明治30年代の10倍に急増、第一次世界大戦直前には輸入モスリンを駆逐したほか、愛知県尾西(びさい)地方の和服用二幅セル(セルジス)の生産も伸びた。
 さらに第一次世界大戦中にはヨーロッパからの毛織物輸入が止まり、ロシアからの軍需用服地の大量注文も加わって、毛織物業界はブームに沸いた。しかし、戦後の反動不況は過剰生産を生じ、早くも大手6社による「日本羊毛工業会」なるカルテル組織が設立された。[殿村晋一]
昭和期以降
とくに関東大震災(1923)の悲劇を経て、昭和に入るころから、服装改良のテンポが速まった。女学校・女子紡績工・バスガールなどの洋装化が進み、和服用モスリンは衰退し、サージを中心とする洋服地生産への転換が、尾西(びさい)や、泉州(大阪府南部)の中小毛織物企業を中心に進み、1935年(昭和10)ごろには尾西だけで全国生産の60%を占めた。毛織物の輸出も始まり、1937年にはイギリス、ドイツ、イタリアに次いで第4位となった。倉敷紡・東洋紡・鐘紡(後のカネボウ)など綿紡資本も梳毛(そもう)紡績に乗り出した。
 第二次世界大戦後、毛織物工業の回復は綿布・人絹・スフよりは遅れたものの、生産額では1957年(昭和32)、輸出額では1960年代に戦前のピークを超えた。
 しかし、1970年代前半には輸出規制、後半には化繊や合繊に押され、毛糸生産(梳毛糸+紡毛糸)は1973年の19万8000トンをピークに1983年には11万トン、2002年(平成14)には2万6000万トン(ピーク比13%)に、主要繊維生産量に占める毛糸のシェアは1973年に8.6%、1983年には5.7%、2002年には3.0%となった。大手紡の工場閉鎖、紡機縮小、中小紡の転廃業により、梳毛式精紡機は1972年末の235.8万錘から1984年6月末現在で149.3万錘と、12年間で37%減少した。生産コストの6割近くを占める原毛はほぼ全量が輸入に依存しており、おもにオーストラリア、台湾、ニュージーランドからの輸入である。原毛・毛糸市況の変動で収益は振れやすい。根強い天然繊維ブームもあって、羊毛の国際価格は下方硬直的である。[殿村晋一]
『有沢広巳著『日本産業百年史』(1966・日本経済新聞社) ▽遠藤元男著『織物の日本史』(1971・NHKブックス) ▽大塚久雄著『欧州経済史』(1973・岩波書店) ▽山根章弘著『羊毛文化物語』(1979・講談社) ▽山根章弘著『羊毛の語る日本史』(1983・PHP研究所) ▽安川雄之助・川西清兵衛他著『明治大正産業史 第2巻』(2004・日本図書センター) ▽日本化学繊維協会編『繊維ハンドブック』各年版(日本化学繊維協会資料頒布会)』

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