フランドルの画家。ファン・エイクとも記す。早くよりイタリアで油彩画の創始者と信ぜられた。対象の質感や空間の遠近の正確な表現,また肖像画における3/4正面胸像形式の採用と左方から来る光線によるモデルの肉付け等は他者の追随を許さず,孤高の画家ともいえる。おそらくマースエイクMaaseikで生まれ,ブリュージュに没。はじめハーグのホラント伯の宮廷にミニアチュール画家として仕える。1425年以降ブルゴーニュ公の宮廷画家また侍従として活動し,しばしば特使として遠国に派遣され,とくに28-29年にはポルトガルに滞在し,同国の王女イサベラを主君フィリップ(善良公)の妃として迎えることに尽力した。このような活動は後のルーベンスにも見られ,組合に所属する一般の画家とは異なった特権や待遇を受けていた。これは反面また弟子が少なく,その画風が後世に伝わりにくかったことにも関係し,R.ファン・デル・ウェイデンと対照的である。ヤンの兄フーベルトHubert van Eyckの存否をめぐる問題は論者によって見解を異にするが,兄が始め,その死後(1426ころ)弟が引き継いで完成したといわれる《聖なる小羊の礼拝(神秘の小羊)》(ヘント祭壇画)(シント・バーフ教会,ヘント)には遠近法や人物の顔の表現に明らかにヤン以外の手が認められることからして,フーベルトの存在を肯定すべきものと思われる。
ヤンには《ティモテオス》(1431),《赤いターバンの男》(1432)ほか,計9点の年記およびギリシア文字の座右銘の入った作品があって基準作となり,これらによって年記のない《アルノルフィーニ夫妻》《官房長ロランの聖母》等の制作年代の推定が可能となる。しかし今日ヤン作品と信ぜられるほとんどすべての板絵はヘント祭壇画の後に来るものである。それ以前のヤンの若描きと目すべき作品については,ホラント伯の宮廷に在職中制作にかかわったと思われる《トリノ時禱書》のミニアチュールをはじめ,板絵では《墓地の3人のマリア》《聖堂中の聖母》等,いずれもあまりに小品であるか,または国際ゴシック様式の残渣を示し,直接大作ヘント祭壇画を導くに十分な先行作品としがたいうらみがある。上記《トリノ時禱書》《墓地の3人のマリア》《聖堂中の聖母》等がもしヤンの若描きであるとすれば,そこに認められる後期ゴシックまたは国際ゴシック様式的特色と透徹した写実とは,はじめミニアチュール作家として出発し,やがてみずからも関与した油彩技法の開発をまって板絵画家へと転身したことを推定させる。ヘント祭壇画の中央図(《父なる神,聖母,ヨハネ》)に兄フーベルトの手を認める立場をとれば,兄は弟ヤンよりかなり年長の,古きゴシックの伝統をひく巨匠であったと思われ,ヤンが描いたと推測される翼画(《アダムとイブ》《聖告》)に比して空間表現に著しい相違を示す。他面,ヤンと15世紀フランドル絵画史を二分するファン・デル・ウェイデンは,カンピン工房への入門に先だって,おそらくヤンと関係をもったと思われ,この解明は今後の研究にまつところが大きい。
執筆者:前川 誠郎
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兄フーベルトHubert van Eyck(1370ころ―1426)、弟ヤンJan van Eyck(1390ころ―1441)。北方ルネサンスといわれる15世紀ネーデルラントに発展した絵画の、真の創始者、代表者。彼ら兄弟によって、それまでのテンペラ画法にかわって油彩画法が初めて確立されたといえる。2人が協力して描いたベルギー、ヘント(ガン)市の聖バボン(シント・バーフォ)大聖堂の祭壇画は、北方ルネサンスのもっとも輝かしい金字塔である。兄弟のうち、兄フーベルトについては、この祭壇画の銘に「ヨドクス・ファイトの需(もと)めに応じて最大の画家フーベルト・ファン・アイクがこの作品に着手し、彼に次ぐ画家たる弟ヤンがこれを完成した。ときに1432年5月6日」とある以外、その生涯や作品を知る確実な資料はない。しかし、彼も弟ヤン同様、リエージュ北方のマーサイクに生まれ、当時のネーデルラントの文化および商工業の中心地であったブリッヘ(ブリュージュ)を主舞台に活躍したとされる。
一方、弟ヤンについてはかなり詳しく知られている。すなわち、フーベルトの弟として、同時にその弟子として成長し、1425年以後ブルゴーニュ公フィリップ善良公の従者兼宮廷画家となり、31年以後はほとんどブリッヘで活躍し、同地で没した。彼は兄の衣鉢を継いで、深い自然観察と豊かな写実力により、親しみやすく温かい北方ルネサンス様式をみごとに完成した。その後の北方ルネサンス絵画の展開は多くを彼ら兄弟に、とくにヤンに負うところが多いが、同時にその自然主義はイタリア・ルネサンスにも多大の刺激を与えた。現存するヤンの作品としては、『ニコラ・ロランの聖母』(ルーブル美術館)、『聖バルバラ』(アントウェルペン王立美術館)、『室内の聖母子』(フランクフルト美術館)などのしっとりと親密な宗教画のほかに、『画家の妻』(ブリュージュ美術館)、『アルノルフィニ夫妻』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)のような肖像画が名作として名高く、近代肖像画の一つの典型をつくりあげた。
[嘉門安雄]
『黒江光彦著『世界美術全集2 ファン・アイク』(1978・集英社)』
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…しかし,プラハを中心とするボヘミアではフス戦争,フランスではアザンクールの敗戦,ベリー公の死,ブルゴーニュ公のディジョンからブルージュへの遷都などを機に,1420年代から芸術的活動は急速に衰退する。ドイツ,イタリアでは1450年代まで国際ゴシック様式の作例がみとめられるとはいえ,1420年代になると,イタリアでのマサッチョ,ネーデルラントでのファン・アイクの作品に示されるように,絵画表現から国際ゴシック様式の童話的幻想性は払拭され,その世界は量感と質感をもっていっそうの迫真性を加えて表現され,新たな時代の到来がみとめられる。【冨永 良子】。…
…ハンザ同盟諸市は民衆的な率直な画風をむかえ,14世紀から15世紀初めにハンブルクでマイスター・ベルトラムMeister Bertram von Minden(1340ころ‐1415ころ)が名高く,同じころコンラート・フォン・ゾーストKonrad von Soest(1370ころ‐1425ころ)はケルン派の様式をまじえ,マイスター・フランケは国際ゴシック様式に近づいている。フランスやネーデルラントでは15世紀初め,マルーエル,ブルーデルラムや,《ベリー公のいとも豪華な時禱書》の装飾をしたランブール兄弟らが国際ゴシック様式の最後をかざり,やがてファン・アイクは写実主義を徹底させ,油彩技法によって個人的視覚を確立して,新しい近代絵画の第一歩を踏み出す(ヘントのシント・バーフ教会の《神秘の小羊》大祭壇画,1432)。彼やファン・デル・ウェイデンらのフランドル画派は,建築よりも先んじて絵画をゴシック様式から解放したといえよう。…
…北方領国諸邦の経済力に支えられて,バロア王家を除けば当時ヨーロッパ随一の財政規模を構え,その宮廷文化は,中世の貴族的生活規範をひとつのスタイルにまで高めたものと評される。金羊毛騎士団が展開した騎士団の盛儀,シャトランに代表される〈大修辞家〉文芸の流行,ファン・アイクに始まった15世紀フランドル画派の隆盛,これら文化の諸相は,すべてフィリップの代にかかわるものである。しかし〈公国〉は,一個の国家にふさわしい集権体制をついにとりえず,北方領国にはフィリップに対する批判がくすぶりつづけ,バロア王家の陰湿な政策の前に,フィリップの晩年,公国はすでに自壊の兆しをみせていた。…
…中世の象徴的思考法と現実への新たな関心とを融和させたこの〈偽装象徴主義disguised symbolism〉は,17世紀オランダの風俗画や静物画にも継承されてゆく。 初期フランドル絵画の最大の巨匠でその輝かしい伝統の祖となったのは,ブリュージュのブルゴーニュ公宮廷に仕えたヤン・ファン・アイクである。油彩技法の発明者というのは後世の伝説であるとしても,彼がこの技法を完成させて自在に駆使していることは,鏡のごとき迫真性をもったその作品に明らかである。…
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