現実には存在しない,理想的な世界をいい,理想郷,無可有郷(むかうのさと)などと訳される。ギリシア語を手がかりとして〈どこにもないou場所topos〉と〈良いeu場所topos〉とを結びつけたT.モアの造語。ユートピアの観念は,人間の自然な感情として普遍的にいだかれうるものであるが,同時に特定の内実をもった思想的表明,もしくは運動をもうみだす。
ヨーロッパでは古代以来,ユートピア思想と運動の伝統が形成されている。最古のものは,プラトンの対話編《国家》にあらわれる。プラトンはここで,哲人支配者によって厳格に統治される国家を描き,現実のアテナイを暗に批判するとともに,人間と政治の本質が理想的に発現される形式を記述した。この《国家》はおなじプラトンが《ティマイオス》《クリティアス》の両対話編で描いた,往古の理想社会アトランティス(アトランティス伝説)の記述とあいまって,後世の思想家たちに決定的な影響を与えた。また,プラトンがある程度関連を求めたとおもわれる当時のスパルタが,後1世紀にギリシア人著作家プルタルコスによって理想化され,〈立法者リュクルゴスの政体〉として頻繁に論じられた。
ヘブライズムは,これに対して明確な形ではユートピアを提供してはいない。しかし,旧約聖書の《創世記》にあらわれるエデンの楽園は,たんに失われた原罪以前の理想境を回顧しているばかりではなく,新約聖書にあらわれるような,終末におけるイエスの再臨とともに出現すべき新しいエルサレムの原型をもなしている。エデンは田園的,エルサレムは都市的楽園であるが,摂理によって支配される現世の全時代の両極外に,このようなユートピアの情景を導入したことは,後世への大きな遺産というべきである。ヨーロッパ中世は,明確な輪郭をもったものとしてはとりあげるべきユートピア像をもたなかったが,あえて例を挙げるとすれば,伝説上のキリスト教国プレスター・ジョンの国(プレスター・ジョン伝説)であろう。これは閉鎖された中世キリスト教世界が東方に想像した理想国であり,聖書にさかのぼる楽園思想を基調としている。ただし,ヨーロッパ中世においては,広義のユートピア待望の運動がとくに12世紀から14世紀にかけ,異端運動として激発した。社会的変動によって生存条件の急激な劣化をこうむった集団・階層や,異民族の侵入ないし疫病の流行におびえた人々によって支えられ,おびただしい終末の預言行為がなされたこれらの運動は,一般に千年王国運動の名で総称される。その精神は宗教改革さらにそれ以降も繰り返し分派活動の中に生き続けることになった。
〈ユートピア〉の語をつくったT.モアの《ユートピア》(1516)は,古典古代文化とキリスト教を前提とはしつつも,時代の多様な刺激に対応するものであった。とりわけ中世末以来の政治的混迷に対しては,良好に統治された争闘なき国家を対置した。これに加えて,コロンブスの新大陸到達に始まった海の彼方の世界への期待と驚異が,直接的なかたちで投影されている。モアの〈ユートピア〉は,新世界に属する海洋中の島であり,腐朽した現実世界から隔絶されている。その住人は,穏当な理性に従い,社会的な平等のもとで,原初的な自由を享受している。人文主義や宗教改革など16世紀の精神と響和して,《ユートピア》は人間主義と原初志向とをうたいあげ,あわせて現実批判の鋭利な手段ともなりえたのである。同世紀にはほかにA.F.ドーニ《世界》(1552),F.パトリーツィ《至福の都》(1553)など,新世界情報をも盛りこんだユートピアが描かれた。17世紀初頭には著名な2例があらわれる。T.カンパネラ《太陽の都》(1623),F.ベーコン《ニュー・アトランティス》(1627)である。この両作品は,モアの《ユートピア》と同じく海を隔てた陸地もしくは島に場をさだめ,住民の明察とともに,素朴な自然性をも称揚している。プラトン以来の伝統に従って,哲人政治と財産共有のもとで,住民はおのずからなる調和のもとに生きている。しかし他方で,あらたに開発される科学と技術が人間社会に有効に利用されるさまを描き,進歩への信頼が表明されている点も軽視しえない。
17世紀のユートピア論には,外見上,二つの対立する形式がある。第1はカンパネラ,ベーコンに引き続いて,科学上の技術や社会制度の改変によって達成しうるユートピアを描くものである。その場は特定されるにしても,原理上は普遍的に適用されうるものであり,17世紀の知的環境に適合している。知識の獲得,人知の向上はユートピアの必須条件とされているかのようだ。J.ハリントン《オシアナ共和国》(1656),シラノ・ド・ベルジュラック《別世界または月世界諸国諸帝国》(1657),G.deフォアニ《南の未知の国》(1676)などの例をあげられるが,いずれも構想の奇抜さにもかかわらず,内容的にはひじょうに現実的である。
これにたいして第2の形式は,キリスト教的色彩の強いものである。カンパネラのものも,彼がカトリックを受けいれたのちの作品であるため,カトリックの秘教的性格を加えているが,キリスト教倫理と摂理とが前面に掲げられたユートピア論はほかにもあらわれる。J.V.アンドレーエ《クリスティアノポリス(キリスト教都市)》(1619),S.ゴット《新エルサレム》(1648)が代表例。最も秘教的・セクト的傾向が明らかなのは,ピューリタン革命期のディガーズの指導者G.ウィンスタンリーによる《自由の法》(1652)であり,強い求道的イメージで貫かれている。実際,16世紀の宗教改革以降,ことに改革派のなかには,強度な抑圧に抗して宗派共同体を建設し,ここに純粋な理想社会を実現しようとするユートピア運動が頻発した。共有財産,家族の解体から,さらに進んで未開荒地に新たに開墾農場を設け,自給自足して周辺社会から隔絶しようとするものもあった。再洗礼派諸派にこの例が多く,理想社会に依拠して世界終末を期待するものであった。旧ワルド派,フッター派,メノー派は,スイス山中や北アメリカの原野に集住地をもち,またクエーカー,バプティストなどもユートピア集団を構想した。中世末から17~18世紀にかけて,異端派,少数派がユートピア運動にむかうケースが多いのは,正統派,多数派の組織的緊密化(非寛容化)と現実密着化傾向に敏感に対応したものと考えることができる。
進歩と啓蒙の18世紀においては,一般に自由で計画的なユートピアが語られ,総じて未来への楽観的信頼が顕著である。モレリー《自然の法典》(1755),コンドルセ《人間精神進歩の歴史的素描》(1795)などは,厳密にはユートピア論とはいいがたいものの,理想社会の接近を読者に印象づけた。L.S.メルシエ《2440年,別名こよなき夢》(1770)はこの世紀の代表例である。同時代の啓蒙専制国家を母体とした,多数の上からの国家改造計画にもその傾向があらわれている。
19世紀のユートピア論は,おおむね四つの系統に分かれる。第1は18世紀をうけつぎ,産業革命と近代科学の高揚によって現実化された科学技術文明のユートピアである。最も楽観的なものは,世紀の後半に続出し,技術と社会機構の発展によって現在の延長上に構想され,貧困,過重労働,凶作,不況から免れた豊かな社会が近い未来に描かれた。E.ベラミー《顧みれば》(1888),T.ヘルツカ《自由の地》(1890)は,ことにアメリカで熱狂をもってむかえられた。
第2は,ロマン主義の影響のもとに成立したものであり,第1とは逆に高度な技術文明を嫌悪し,前産業化社会を背景として調和と協働,自然への回帰と人間性の回復を基調とする理想社会をもとめた。ブルワー・リットン《未来の人種》(1871),W.モリス《ユートピア便り》(1890)などが典型例で,これらは社会運動としてはギルド社会主義にも結びつき,近代社会批判として強い影響力をもった。
第3は,党派的なユートピアであるが,かつて宗教的運動の中で主張されたような孤絶したユートピア構想とは異なった,新しい開放性をもっている。党派のユートピアは,理論上の要請であるとともに行動のプランでもあるが,19世紀については,とりわけイギリスのR.オーエンとフランスのサン・シモン,C.フーリエらの初期社会主義運動が注目される。オーエンは,協同組合を主体とする共産的村落を構想し,1825年からアメリカに〈ニューハーモニーNew Harmony〉を建設して,この理想を現実に移そうと試みた。他方フランスの初期社会主義者にあっては,サン・シモンが経済主義の優位と新たな人類愛を説く〈新キリスト教〉をとなえた。É.カベはユートピア論《イカリア旅行記》(1840)を著すとともに,アメリカに〈ノーボーNauvoo〉と呼ばれる理想郷を建設すべく運動を興した。こののち《四運動の理論》(1808)などでさらに幻想的な世界調和の哲学を創案したフーリエは〈ファランステールphalanstère〉なる共同体住居の設置によるユートピア社会実現のなかに人類の理想達成の夢を託した。これらは一面では技術と産業の発達の成果にもとづきつつも,精神的な共同志向をもち,教育による小規模な協同社会の創出を必須とみなしている。
第4に,文学的表現としての諧謔(かいぎやく)のユートピアがある。すでに18世紀にJ.スウィフトが《ガリバー旅行記》(1726)において,極大と極小の架空社会を描いたときに,理想国家の冷厳な現実が間接的にとりあげられていた。S.バトラー《エレホン》(1872)もまた,一見理想的にみえる社会のうちに逆説的な暗黒面を見いだし,結果として未来の予測可能性を疑わしめることになった。
19世紀から20世紀にかけて,新たな都市計画運動が起こり,ユートピアの理想が社会計画のうちに投影されるようになった。だが,顧みると,すでにレオナルド・ダ・ビンチをはじめとする15~16世紀のルネサンスの芸術家,建築家のうちには,理想都市の設計から,一部は着手にまでおよんだ者がいる。イタリアの新設都市には,幾何学的な空間構成をたもったものが現存している。このような社会の計画化は,18世紀の啓蒙思想のなかで〈計画のユートピア〉として,大々的にとりあげられた。啓蒙専制国家が経済的な振興をかけて,国家や社会の改造プランを理念的に提出したものである。19世紀末にイギリスで〈田園都市〉論を提唱(1898)したE.ハワードは,これらのユートピアの都市(社会)論の系譜上にあるが,彼は大都市の行詰りに対応して,調和に理想を求めたのである。この構想は現実に移されたばかりか,各国の都市計画者に刺激を与え,20世紀に大きな遺産を残すことになった。
20世紀に新たに加わったユートピア思考のひとつは,SF化されたユートピアの夢想である。宇宙や極地や海底の開発を通して,空想的な予言が真実味をおびるようになり,極端に発展した機械文明が,人間の物理的限界をこえて浮遊しうるような超越的ユートピア像が提出された。その一例がH.G.ウェルズのユートピア《モダン・ユートピア》(1905)でこの作品は冷静な社会分析をふくみつつもSF世界を開示して多数の読者を獲得した。
第2には,反ユートピア(ディストピア)論の登場である。J.ロンドン《鉄のかかと》(1907),E.I.ザミャーチン《われら》(1924),A.L.ハクスリー《すばらしい新世界》(1932),G.オーウェル《1984年》(1949)などの代表例が挙げられる。これらは,理想国家として建設されたはずのユートピアが,かえってその強大な支配力によって人間を不自由化する,というモティーフにもとづいており,社会主義計画経済やケインズ主義政策などの定着の反面であらわになった矛盾に,敏感に反応した文学的表現といえる。反ユートピア論は,20世紀の終末に近い現代においては,社会と技術の発展が人間のコントロールの及ばないところにまでいたってしまう危惧が語られるとき,ますます説得力を加えてゆくようにみえる。
以上のように,ユートピア思想は,歴史的にみて,それぞれの時代の社会のあり方と,それにかかわる一般的な思想動向と密接に関連している。〈どこにもない場所〉をもとめながらも,その主張は現にある場所と強い緊張関係を保っていることを認識すべきである。それゆえに,ユートピア論は思想史研究の重要な分野とみなされてきた。しかし,ユートピア論を歴史的文脈に内在させてあつかうのみならず,歴史通貫的な類型論にもとづいて,これを分析することも可能である。その類型論としては,たとえばつぎのような対比軸を設定することができる。
第1にはユートピアが時間の中で構想されるか,空間の中で構想されるか,という対比である。ユートピアは,いまnuncとここhicの存在に対する異議の表明であって,その具体像は,時間的過去の回復としてか,もしくは空間的遠隔地での実在として描写される。アトランティスとモアのユートピアとは,その内実においては似ていながらも,発想の相違は明白である。第2にはユートピアは一般的に,都市的背景のもとか,もしくは農村的背景のもとかで描かれる。都市的なものは,人間社会の組織と秩序がきわめて巧妙かつ精緻に組みたてられたものを構想し,ある種の都市計画ユートピアにみるように,技術力の高い評価にむすびついている。他方,農村的なものは,アルカディア的自然のなかでの,人間と環境との良好な関係を理想としてかかげ,田園,原野,森林にかこまれた,比較的小規模な集落が想定される。都市と農村という対比軸は,文明(洗練)と未開(素朴)としても表されるが,いずれもユートピアの志向性の両極を占めている。第3に,ユートピア社会は,秩序の維持をその構成員の統制によるか,自発によるかという対比を含んでいる。前者では,スパルタのリュクルゴスの国制のように,強力な政治指導をかかげ,その統制のもとに秩序が抵抗をうけずに定着する。後者では,19世紀のコミューン型ユートピアにみられるように,財の共有などを通して,共同社会は自発性にもとづいて形成される。この対比は,いわゆる性悪説と性善説という二つの世界観照とも対応する。つまり,秩序は人間集団に外在して作為的に働くのか,内在しておのずから自己調和的に働くのか,という見解の相違にも一致する。そのほか,ユートピアの実現過程について,千年王国的な飛躍を前提とするか,あるいは漸進的な進歩の結果とするか,というような対比もあげられよう。以上は例としてのかぎりであり,今後研究の進展とともに,さまざまな類型論が提出されてゆくことであろう。
なお,これまで取りあげたものは,ヨーロッパ思想圏に属するものだけであるが,非ヨーロッパ世界におけるユートピアについては,知られているところは多くはない。それはたんに研究の遅れに由来するのか,それともユートピア思想が本質的にヨーロッパ思想に特有なものなのかは目下のところ決しがたい。しかし,少なくとも,中国における桃源境や日本における常世国(とこよのくに)のような〈いま〉〈ここ〉にない世界に対する想像力の開花の事例は存在する。前者は地上の山間部にある田園的色彩をおびた平和郷であり,後者は古代日本で海の彼方に想定された楽土である。欧米にも知られた例としてはシャンバラ伝説がある。これらが,いかなる思想史上の文脈から発案されたか,どのような思想類型を構成しているかが検討されなければならないであろう。
→千年王国 →天国 →楽園
執筆者:樺山 紘一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
トマス・モアが1516年に刊行した政治的空想物語。ラテン語で書かれ、正式な題名は『社会の最善政体について、そしてユートピア新島についての楽しさに劣らず有益な黄金の小著』である。架空の人物ヒュトロダエウスが新世界で見聞した架空の諸国、とくにユートピア(どこにもない場所の意味)についてモアと語り合うという形式をとる。主として当時のヨーロッパ社会を批判した第一巻と、理想的な社会であるユートピアを描写した第二巻からなる。当時のヨーロッパの君主は自分の富や領土を増大することのみに専念し、一方民衆は「囲い込み」によって土地を奪われ、牛馬よりもひどい労働を強いられている。国家や法律も貧しい人々を搾取するための「金持ちの共謀」による私物化にすぎない。このような諸悪の根源として貨幣経済、私有財産制がある。これに対してユートピアでは、市民は平等であり、貨幣が存在せず、財産共有制が敷かれている。すべての人間が労働するために、少ない労働時間で十分であり、自由な時間を「精神の洗練」のために用いる。
この作品は、愉快な物語の形式を借りて、当時の腐敗したキリスト教社会の改革、再生を、政治家、知識人に訴え、真の公共性、正義とは何かを問うたキリスト教人文主義者の手になるものである。その後、ユートピアは一般的に理想郷の代名詞となり、また、ユートピア文学のジャンルの創始となって、大きな影響を与えた。
[菊池理夫]
『沢田昭夫訳『ユートピア』(中公文庫)』▽『平井正穂訳『ユートピア』(岩波文庫)』
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モアの主著。1516年ラテン語で刊行。エンクロージャーの進行する当時のイングランド社会を批判し,理想郷としての一種の共産主義社会の仕組みを描写した。「ユートピア」は「どこにもない場所」という意味のギリシア語からのモアの造語で,こののち,実際には存在しない理想の国家ないしは社会に託して現実批判を企てる,一連の「ユートピア」文学の系譜を生んだ。
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…聖ローレンス教会でアウグスティヌスの《神の国》について連続講義も行って成功を収めた。ロンドンの司政官補,治安判事,下院議員に選ばれ,政治家として活躍し,ロンドン商人の利害を代表してヘンリー8世の外交使節となり,通商条約改訂交渉のため大陸に渡り,その余暇に《ユートピア》(1516)を書いた。その出版の翌年,国王の宮廷に出仕し,大法官にまで昇進した。…
…ギリシア語を手がかりとして〈どこにもないou場所topos〉と〈良いeu場所topos〉とを結びつけたT.モアの造語。ユートピアの観念は,人間の自然な感情として普遍的にいだかれうるものであるが,同時に特定の内実をもった思想的表明,もしくは運動をもうみだす。
[ユートピアの系譜]
ヨーロッパでは古代以来,ユートピア思想と運動の伝統が形成されている。…
…コロンブスやベスプッチの手紙は,すぐに各国語に翻訳されて,新世界の情報を提供した。トマス・モアは《ユートピア》(1516)の材料のなにがしかを,これらに仰いでいる。バスコ・ダ・ガマの航海は,ポルトガルの国民的詩人カモンイスに同じ冒険の旅を企てさせることとなり,彼はその体験をふまえて,ガマを主人公とした大航海叙事詩,ホメロスの作品としばしば比較される《ウズ・ルジアダス》(1572)を書いた。…
…上部構造(2)イデオロギー論はその後,マルクス主義陣営以外では,第1次大戦後のドイツで〈知識社会学〉という社会学の一特殊分野を生み出すことになった。その体系家K.マンハイムはイデオロギーとユートピアとを対比し,両者ともに現実の社会には適合しない〈存在超越的〉な観念であるとしながらも,ユートピアが〈存在がいまだそれに達していない意識〉,つまり既存の社会をのりこえる革命的機能をもつ意識であるのに対し,イデオロギーは〈存在によってのりこえられた意識〉,つまり変化した新しい現実をとりこむことのできない,時代にとり残された意識,と規定した。さらにまたマンハイムは,マルクス主義が観念や意識の存在拘束性を発見した功績を評価しながらも,それが敵対的階級のイデオロギーの存在拘束性を暴露することにのみ終始し,自己自身の観念体系をも存在に拘束されたものとしてみる自己相対化の視点を欠いているとして批判し,自己自身の立場にも存在拘束性を認める勇気をもつとき,単なるイデオロギー論は一党派の思想的武器であることをやめ,党派を超越した一般的な社会史や思想史の研究法としての知識社会学に変化する,と主張した。…
…K.マルクスの主著で,社会主義に〈科学的〉な基礎を与えたとされる著作。原題を直訳すれば《資本――経済学批判》である。資本制的な生産,流通,分配のしかたを研究して,資本主義社会の経済的な,編成および運動法則を明らかにし,そこから社会主義革命の必然性(=社会主義体制の優越性)を証明しようとした。マルクス経済学およびマルクス・レーニン主義の基本文献。マルクス経済学
【成立】
マルクスは,1844年ころヘーゲル法哲学の批判的再検討を通じて,近代ブルジョア社会の解剖学は経済学のうちに求めなければならない,とする予想に達した。…
…万物ともに気によって構成されていることが論理的根拠とされ,万物への愛に覚醒し万物の本質が現実化することを求める。人間社会に即していえば,個々の人が人格的に自立して他者に愛を及ぼし,大同社会を実現することを求めるユートピア思想である。【吉田 公平】。…
… しかし神学的にはともかく人類の心情としては,地上のどこかになんらかの楽園が残っているのではないかという想像を,絶ち切ることができなかった。これは一般的にいえば〈ユートピア〉願望の一部であり,人類の空想を何世紀にもわたって刺激しつづけたし,中世から近世,そして現代にいたるまで,大小いくつもの探険の動機となった。とりわけヨーロッパ人の内部には,ギリシア・ローマ以来の伝説が生き続けていたし,現実にも嵐の後など西に面する海岸にヤシの実や見なれぬ丸木舟の残骸が打ち上げられることがあって,はるかな西方洋上に見知らぬ楽土があるのではないかという空想は,尽きることがなかった。…
…《近代画家論》は60年第5巻で完結したが,それ以前は純粋な芸術美を論じてきた彼は,このころから機械文明とそれがつくり出す社会悪に反対する活動に献身するようになった。《この最後の者たちに》(1862)は,彼の思想の転機を画した論文で,自己利益でなく自己犠牲を基本とした経済学を説き,新しい社会主義ユートピアを描いたものであるが,当時は一般の嘲笑を買うだけであった。しかし彼はその後も社会主義の実践活動を続け,労働者のための大学創設にも尽力した。…
※「ユートピア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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