改訂新版 世界大百科事典 「ブラショブ」の意味・わかりやすい解説
ブラショブ
Braşov
ルーマニアのほぼ中央に位置し,トランシルバニア地方の南東部にある都市。同名県の県都。ハンガリー語ではブラッショーBrassó,ドイツ語ではクローンシュタットKronstadt。人口28万3328(2005)。住民は同市を建設したドイツ人(いわゆるザクセン人)のほかにハンガリー人,ルーマニア人,ギリシア人,ブルガリア人,アルメニア人等がおり,ルーマニアの都市の中でも民族的に最も多彩な都市であったが,第2次大戦後はドイツ人の減少とルーマニア人の流入によって現在はルーマニア人が多数を占めている。市の南方には南カルパチ山脈のポスタバルPostǎvaru山がそびえ,この山脈を横断して首都ブカレストとを結ぶ鉄道,道路は石灰岩質の山肌を仰ぎながら渓谷に沿って走り,国内有数の景勝地に数えられている。気候は大陸性気候であるが,カルパチ山脈の外縁部(たとえばブカレスト)よりも穏和でしのぎやすい。年間平均気温7℃,1月の平均気温-4℃,7月は17℃。同市はルーマニアの経済・文化の中心地の一つで,第2次大戦後は郊外に大工場が建設され,ブカレストに次ぐ国内第2の工業都市である。代表的な産業としては機械工業のほか,金属加工,繊維,食料品等があり,トラック工場がとくに有名である。中世以来の歴史的建造物の多い同市には,現在,工科大学と教育大学があり,文化・教育の一中心地である。また市から13kmにはスキー場としても知られる高原ポヤナ・ブラショブがあり,南カルパチ山脈の諸山への登山口でもあるので観光地としてもにぎわっている。また国内随一の狩猟地域で,カルパチ山脈の通称〈黒カモシカ〉は有名である。
ブラショブの名が初めて史料に現れるのは,ハンガリー王国領時代の1252年である。もとこの地方は,ブルサの国(ルーマニア語でツァーラ・ブルセイŢara Bîrsei,ドイツ語でブルツェンラントBurzenland)とよばれたが,ハンガリー王は南方のクマン人に対抗するため1211年ドイツ騎士修道会を入植させた。騎士修道会は25年に退去したが,このためドイツ人の入植者による町や村が多くつくられ,なかでもブラショブはハンガリー王ラヨシュ1世(在位1342-82)によって自治都市としての諸特権を与えられ,15世紀にはライバルのシビウ市をもしのぐ商工業都市に発達した。国外で高い評価をうけた武器製造職人や東西貿易に従事する大商人が活躍したのもこの頃である。1533年,ウィーン,クラクフ,バーゼルに長く滞在した同市出身のドイツ人人文主義者J.ホンテルスが帰郷し,宗教改革運動の口火を切った。やがてトランシルバニアのザクセン人共同体はルター派に改宗したが,彼はまたトランシルバニアで最初の印刷所を設立したり,最初のトランシルバニア地図を作製したりして,文化的発展に貢献した(彼の像はいまも〈黒い教会〉のかたわらに立っている)。このように市はドイツ人の町として,旧市内中央の市参事会堂や〈黒い教会〉(1385-1476年の建立。火災のため黒くなったのでこの名がある)を中心に発展し,ルーマニア人は長く市内への居住を許されなかった。18世紀以降シュケイとよばれる市外地に住んでいたルーマニア人がその勢力を伸ばし,漸次旧市内での営業権や居住権を獲得し,19世紀にはルーマニア人の教育・文化運動(新聞・雑誌の発行等)の一中心地となった。第1次大戦後ルーマニア領となり,現在にいたっている。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報