改訂新版 世界大百科事典 「ブラティスラバ」の意味・わかりやすい解説
ブラティスラバ
Bratislava
スロバキア共和国の首都。人口42万5293(2005)。ドイツ語でプレスブルクPressburg,ハンガリー語でポジョニュPozsony。スロバキア・ドナウ低地の北西部,小カルパチ山脈(カルパチ山脈の北西部)の南麓にあり,ドナウ川に臨む。ウィーンまで約55km,ハンガリー国境まで約20kmの所に位置し,中欧,東欧の東西・南北の鉄道交通,河川交通の中心として,歴史的にはスラブ人,ドイツ人,ハンガリー人が混在した国際都市として発達してきた。
ここにはスロバキアの約14%,西スロバキア地方の約30%の工業が集中している。主要部門は,化学・機械・食品・皮革・ガラス・製紙・木材・服飾・製陶工業で,なかでも化学工業が盛んで,スロブナフト石油コンビナートはスロバキアで最も大きな規模を誇っている。農業では広大な後背地で栽培されるブドウ,野菜がその代表である。ブラティスラバはまたスロバキアの科学・芸術・教育の中枢でもある。1919年創立のコメニウス大学をはじめとする高等教育機関,スロバキア科学アカデミー,スロバキア・フィルハーモニー,国立劇場,植物園,動物園,博物館,放送局,スポーツ・センターなどがある。歴史的建築物としては,18世紀にはマリア・テレジアのハンガリーにおける居城でもあった城が核となり(1953再建),城の下方に密集する14世紀の市庁舎のある旧市街,1563-1830年の間にハンガリー国王の戴冠式を行った聖マルティン教会,数多くのバロック,ロココ式の教会,邸宅,宮殿がある。
ここはすでにローマ時代,ローマ軍の駐屯地であった。5世紀にはスラブ人が居住しており,907年にハンガリー人の国境守備の城砦として初めて文献に現れた。11世紀末から城の下方にあったスラブ人の市場集落がボヘミア王国との商業関係を保ち,オーストリアとハンガリーの商業を中継する役割を担った。都市としての骨格をもったのは13世紀で,ドイツ人の入植が盛んに行われた時代であった。中世,ことにハンガリー王マーチャーシュ1世(在位1458-90)の時代にはハンガリーの経済・文化の最も重要な中心地として栄え,1467年にはここに大学(コメニウス大学の前身)が建てられた。1541年オスマン・トルコによってブダペストが奪取され,ブラティスラバは1784年まで2世紀以上にわたってハンガリー王国の首都となった。1830年までハンガリー王はここで戴冠し,48年までハンガリー議会が置かれた。19世紀に入ると,スロバキア人の文化的中心地として発展し,1803年には福音書学校でスラブ語と文学の講座が開かれ,28年には,のちにシュトゥールの働きでスロバキア民族運動の指導的機関となるスロバキア学生協会が発足し,スロバキア人の民族的覚醒に影響を与えた。1918年12月,チェコスロバキア共和国に編入されたが,38年チェコと分離・独立したスロバキアの首都となった(1945年まで)。93年1月,スロバキアがチェコスロバキアから分離・独立し,ブラティスラバは再びその首都となった。
執筆者:稲野 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報