イタリアの画家。7月12日、トスカナ地方の港町リボルノに生まれ、のちにエコール・ド・パリを代表する画家の1人となった。幼時より健康が優れず、そのため学業も思うに任せなかったが、1898年からリボルノの画家ミケーリGuglielmo Micheli(1866―1926)のアトリエに通い、デッサンを学ぶ。ふたたび健康を害し、療養を兼ねて母親とともにイタリア各地を旅行する。過去の巨匠たちの作品に触れるとともに、ナポリやフィレンツェで出会った14世紀シエナ派の彫刻家ティーノ・ディ・カマイノTino di Camaino(1285ごろ―1337)の作品に感動し、彫刻を身近なものとして意識するようになる。またフィレンツェとベネチアの美術学校でも学んだ。しかし、彼の芸術を本当の意味ではぐくんだのは、1906年以降彼が生活したパリの地であった。パリでは最初モンマルトルに住み、近くの集合アトリエ「洗濯船」に集うピカソ、サルモン、ジャコブなど多くの芸術家や詩人たちと巡り会う。1909年、セーヌ右岸のモンマルトルから左岸のモンパルナスに移住。また同年、ルーマニアの彫刻家ブランクーシの知遇を得て彼から大きな影響を受ける。以来1913年までもっぱら彫刻、それも直彫(じかぼ)りの頭部像に熱中した。事情が許せば彼は彫刻家になりたかったに相違ない。しかし胸の病にむしばまれた身には直彫りの仕事はきつすぎ、出費もかさんで断念のやむなきに至った。この彫刻の経験は、彼の絵画にみられる、簡潔な手法による豊かな量感の表出に反映しているといえよう。
モディリアニがボヘミアンな生活を送りながらパリから得たものは、セザンヌの厳しい造形性であり、よけいな細部を切り捨てて対象を幾何学的に把握するキュビスムの美学であり、アフリカの黒人彫刻のたくましい表現力であった。そしてそれとともに、トスカナの造形的伝統に連なる彼の古典的気質をも忘れてはならない。それはとりわけ流麗な線の表現に顕著である。彼は好んで人物を描き、風景や静物をほとんど描かなかった。肖像画が多く、裸婦像がこれに次ぐ。裸婦像が登場するのは1916年以降のことである。単純化され、デフォルメされたフォルムと精妙な色調は、画家の詩人的資質と相まって、哀調を帯びた独特の画風をつくりあげた。
1917年、アカデミー・コラロッシに学んでいた19歳のジャンヌ・エビュテルヌと出会い、生涯をともにするようになる。1918年11月、ジャンヌは女児を出産、母親の名をとってジャンヌと名づけられた。この娘は長じて美術史の研究を志し、父親の伝記を物すことになる。モディリアニは1920年1月24日パリで病死。翌日、よき伴侶(はんりょ)であったジャンヌは窓から身を投げ、その後を追った。
[大森達次]
『A・ヴェルナー著、宇佐見英治訳『モディリアニ』(1967・美術出版社)』▽『嘉門安雄解説『現代世界美術全集16 モディリアーニ/ユトリロ』(1971・集英社)』▽『酒井忠康編著『世界の素描34 モディリアーニ』(1978・講談社)』▽『ジャンヌ・モディリアニ著、矢内原伊作訳『モディリアニ――人と神話』(1961・みすず書房)』▽『A・サルモン著、福田忠郎訳『モディリアニの生涯』(1980・美術公論社)』▽『C・マン著、田中久和訳『アメデオ・モディリアーニ』(1987・パルコ出版)』
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イタリア出身のエコール・ド・パリの画家。生地リボルノ,フィレンツェに学んだあと,1906年パリに出てモンマルトル,次いでモンパルナスに住む。ブランクーシと交友をもち,彫刻を志すが,虚弱な体質と貧困のため,しだいに絵画に専念。キュビスム,黒人彫刻などの影響下に,単純化された形態と力強い描線で,モンマルトルの友人たち,妻ジャンヌ・エビュテルヌ(彼の死後,後追い自殺する)などの肖像,裸婦を描き,第1次大戦前後の不安と哀愁を表現した。
執筆者:中山 公男
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