ムーア(読み)むーあ(英語表記)George Augustus Moore

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムーア」の意味・わかりやすい解説

ムーア
Moore, Gordon

[生]1929.1.3. カリフォルニアサンフランシスコ
[没]2023.3.24. ハワイ,ワイメア
ゴードン・ムーア。アメリカ合衆国の科学者,技術者。フルネーム Gordon E. Moore。世界最大の半導体メーカー,インテルロバート・ノイスとともに設立した。
カリフォルニア大学バークリー校で化学を学んだにち,1954年カリフォルニア工科大学で化学と物理学の博士号を取得。卒業後,メリーランド州ローレルのジョンズ・ホプキンズ大学応用物理学研究所研究員となり,対空ミサイルに使われる固体ロケット推進薬の物理化学に取り組んだ。1956年,トランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞したウィリアム・B.ショクリー教授の誘いで,シリコンバレーパロアルトに開設されたショクリー半導体研究所に加わり,シリコンをベースとしたトランジスタの研究を行なった。同僚ら 8人で 1957年に独立し,サンタクララにフェアチャイルドセミコンダクタを設立。ノイスとともに集積回路 ICの開発に成功した。シリコンウェハーの開発・製造に限界を感じたムーアは 1968年,ノイスとともにフェアチャイルドを離れ,サンタクララにインテルを設立。1968~75年副社長,1975~79年社長,1975~87年最高経営責任者 CEO,1979~97年取締役会長。インテルはコンピュータの情報を処理するマイクロプロセッサの開発・生産で急成長し,世界最大手の半導体メーカーとなった。1965年に "Electronics"誌で,半導体の処理能力(集積度)は 1年で倍増すると予測した(1975年には 2年で倍増と修正)。この指摘は「ムーアの法則」として知られ,実際に 1961年からの 40年間で 1年半ごとに倍増してきたことが立証されている。1990年ナショナル・メダル・オブ・テクノロジー受章。1993~2000年カリフォルニア工科大学理事長。

ムーア
Moore, Henry

[生]1898.7.30. ヨークシャー,カッスルフォード
[没]1986.8.31. ハーフォードシャー,マッチハダム
イギリスの彫刻家。炭鉱労働者の子として生れ,第1次世界大戦に従軍し,退役後彫刻家を志し,1919~21年リーズ美術学校,21~24年ロンドンのロイヤル・アカデミーに学ぶ。この間,大英博物館の原始彫刻,古代彫刻に強い影響を受けた。 29年メキシコの雨の神チャック・モールに示唆を受けて最初の『横たわる人』を制作,これは以来ムーアの重要なモチーフとなった。 25年奨学金を得てフランス,イタリアに遊学。 25~32年ロイヤル・アカデミー講師。 28年ロンドンで最初の個展。 32~39年チェルシー美術学校講師。 1930年代ハンプステッドに住み,B.ニコルソン,B.ヘップワース,リードらの前衛芸術家と交わり,作品の抽象化が進んだ。 40年ロンドン郊外のマッチハダムに移住。第2次世界大戦中,従軍芸術家としてロンドンの地下鉄での市民の避難風景を描き,再び具象性を回復し岩や木の根を思わせる人体像を制作。戦後各地の国際展で受賞し,大規模な回顧展も開催され世界的名声を得た。モニュメンタルな構築性となめらかな起伏を伴う有機的輪郭線が特色である。主要作品『北風』 (1928,ロンドン地下鉄本部) ,『聖母子』 (43~44,ノッティンガム,セント・マシュー聖堂) 。

ムーア
Moore, Grace

[生]1898.12.5. アメリカ合衆国,テネシー,スラブタウン
[没]1947.1.26. デンマーク,コペンハーゲン
アメリカ合衆国のオペラ歌手,女優。フルネーム Mary Willie Grace Moore。オペラ界と映画界で人気を博し,批評家にも高く評価された。メリーランド州チェビーチェイスの音楽学校に在学中の 1919年,ワシントンD.C.のナショナル・シアターで開かれたリサイタルに出演し,初めて公の場で歌声を披露。その後,学校を中退してニューヨークに移り住み,ナイトクラブで歌手として働きながらレッスンを受けた。1920年にブロードウェーでデビューしたのち,オペラの修業を積むためフランスに渡る。1927年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の所属歌手となった。1930年ハリウッドに進出し,『恋の一夜』One Night of Love(1934)で主役に抜擢。フルオーケストラを従えたオペラの収録という先駆的な試みにより大ヒットを記録した。他の出演作に『陽気な姫君』The King Steps Out(1936),『間奏楽』When You're in Love(1937)などがある。1947年,コペンハーゲンで行なわれた公演の帰路に飛行機事故で死亡した。

ムーア
Moore, George Edward

[生]1873.11.4. ロンドン
[没]1958.10.24. ケンブリッジ
イギリスの哲学者。ケンブリッジ大学教授 (1925~39) として,また哲学雑誌『マインド』の編集主幹 (21~47) としてイギリス哲学界における主導的役割を果した。 1903年『倫理学原理』 Principia Ethicaおよび『観念論の論駁』 The Refutation of Idealismを発表,この2作は当時のイギリス哲学界に流行していたヘーゲル主義的,カント主義的観念論を批判したもので,新実在論と呼ばれるムーア自身の哲学の出発点であった。彼は体系的哲学を否定し,言語分析あるいは論理分析により哲学上の諸問題に光を当てて,さらに新しい問題を発見してゆくという分析的方法を主張した。主著『哲学研究』 Philosophical Studies (22) ,『常識の擁護』A Defense of Common Sense (25) ,『哲学の主要問題』 Some Main Problems of Philosophy (53) など。

ムーア
Moore, Marianne Craig

[生]1887.11.15. セントルイス
[没]1972.2.5. ニューヨーク
アメリカの女流詩人。ブリン・モー・カレッジ卒業後,教職についたりしながら,『詩集』 Poems (1921) ,『観察』 Observations (24) を発表。 1925~29年文芸誌『ダイアル』の編集にたずさわり,29年以後ニューヨークに移って文筆活動に専念し,多くの詩集を出した。なかでも『詩選集』 Selected Poems (35) と『全詩集』 Collected Poems (51) には T.S.エリオットが序文を寄せ,後者はピュリッツァー賞をはじめ文学賞を独占した。知性と機知とで対象を的確にとらえる詩風で,客観主義の詩人といわれる。ほかにラ・フォンテーヌの『寓話詩』の韻文訳"The Fables of La Fontaine" (54) ,評論集『偏愛』 Predilections (55) などがあり,68年にはその後の作品を含む『全詩集』 Complete Poemsが出た。

ムーア
Moore, Henry Ludwell

[生]1869
[没]1958
アメリカの経済学者。ジョーンズ・ホプキンズ大学で学位を取得し,1896年同大学講師,スミス・カレッジを経て 1902年コロンビア大学教授。計量経済学の先駆者の一人であり,賃金論や景気変動論でもすぐれた貢献をし,部分均衡理論に基づく個別的需要関数の統計的導出を初めて行なった。しかし彼を著名にしたのは主著『総合経済学』 Synthetic Economics (1929) で,従来の経済学が概して経済変数間の関数関係を抽象的解明にとどめていたのに対し,関数関係を統計的実証的に計測し,理論と実証との結合による総合的な経済学の確立を目指した点で世界の経済界に大きな影響を与えた。ほかに"Law of Wages" (11) ,『経済循環期の統計的研究』 Economic Cycles: Their Law and Cause (14) ,"Forecasting the Yield and Price of Cotton" (17) などがある。

ムーア
Moore, Charles Willard

[生]1925.10.31. ミシガン,ベントンハーバー
[没]1993.12.16. テキサス,オースティン
アメリカの建築家。 1947年ミシガン大学を卒業後,プリンストン大学大学院で建築を学んだ。エール大学建築学部長を務めるなど,アメリカの多くの大学で教鞭をとる。 1962年に北カリフォルニアに週末共同住宅シーランチを設計。 24フィートを基本とする立方体群に片流れの屋根をかけた 10戸の住宅が中庭を取囲む緊密な形態で一躍注目を集めた。その後は R.ベンチューリとともにポスト・モダン建築の主導者として活躍。代表作に各種の歴史的モチーフをふんだんに引用したイタリア広場 (1978,ニューオーリンズ) の設計がある。 1991年,アメリカ建築家協会賞受賞。

ムーア
Moore, George (Augustus)

[生]1852.2.24. メーヨー,バリグラス
[没]1933.1.21. ロンドン
アイルランドの小説家。父は国会議員。パリで文学者や画家のグループと交わり,フランス自然主義文学,特にゾラの影響を受けた小説をもってロンドンの文壇に登場。その後しばらく故国に定住,イェーツ,グレゴリー夫人らに協力してアイルランド文芸復興運動に参加したが,晩年はロンドンに戻った。代表作は『旅役者の妻』A Mummer's Wife (1885) ,『エスター・ウォーターズ』 Esther Waters (94) など。ほかに『一青年の告白』 Confessions of a Young Man (88) ,『わが死せる生活の回想』 Memoirs of My Dead Life (1906) などの一連の自伝や歴史小説がある。

ムーア
Moore, Thomas

[生]1779.5.28. ダブリン
[没]1852.2.25. ウィルトシャー,デバイジス
アイルランドの詩人。アイルランド古謡の調べに合せて作詞した抒情詩集『アイルランド歌曲集』 Irish Melodies (1807~35) によって,アイルランドの国民詩人と称された。ほかに東洋的な物語詩『ララ・ルーク』 Lalla Rookh (17) ,摂政の宮に対する風刺詩『2ペンスの郵便行嚢』 The Twopenny Post-Bag (13) ,愉快な書簡詩『パリのファッジ家』 The Fudge Family in Paris (18) などがある。またシェリダン,バイロンの伝記を書いた。

ムーア
Moore, Gerald

[生]1899.7.30. ウォトフォード
[没]1987.3.13. バッキンガムシャー
イギリスのピアニスト。現代最高の伴奏ピアニストとして世界的に知られた。特にディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ,エリザベス・シュワルツコフの伴奏者として知られ,従来の伴奏の域をこえた音楽をつくりだした。一方室内楽奏者としても知られた。1967年引退。著書に『伴奏者の発言』The Unashamed Accompanistなどがある。

ムーア
Moore, Sir John

[生]1761.11.13. グラスゴー
[没]1809.1.16. コルニア
イギリスの軍人。アメリカ独立戦争に参加したのち,一時下院議員をつとめた。 1796年西インド諸島,97~99年アイルランドで軍務につく。 1801年 R.アバークロンビー指揮下のエジプト遠征に参加。 08年イベリア半島に任地が移り,同地区のイギリス軍司令官に昇進したが,当地のフランス軍優勢のため,アストルガからコルニアまで退却し,コルニアでフランス軍と戦ったが,イギリス軍の勝利を目前にして戦死した。

ムーア
Moore, Stanford

[生]1913.9.4. シカゴ
[没]1982.8.23. ニューヨーク
アメリカの生化学者。 1938年ウィスコンシン大学で学位取得。ロックフェラー研究所医学部門研究員 (1939) ,ロックフェラー大学教授 (52) 。各種蛋白質から得られるアミノ酸,ペプチド類のクロマトグラフィーによる分析,特にリボヌクレアーゼの構造決定で知られる。 72年 C.B.アンフィンセン,W.H.スタインとともにノーベル化学賞を受賞した。

ムーア
Moore, Edward

[生]1712
[没]1757
イギリスの劇作家。喜劇『ジル・ブラス』 Gil Blass (1751) ,悲劇『ばくち打ち』 Gamester (53) の作者。いずれもドルアリー・レーン劇場で上演された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムーア」の意味・わかりやすい解説

ムーア(George Edward Moore)
むーあ
George Edward Moore
(1873―1958)

イギリスの哲学者。ロンドン郊外に生まれ、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジを卒業、のちに同大学教授。古典研究専攻ののちに哲学に関心を移し、ラッセル、ウィットゲンシュタインとともにケンブリッジ分析学派を代表する一人。

 理論哲学では初期の論文『観念論論駁(ろんばく)』(1903)でバークリーやイギリス・ヘーゲル学派の観念論を批判して20世紀実在論の傾向を代表した。また『常識の擁護』(1925)などで、外界の実在や時間の存在を否定するイギリス・ヘーゲル学派の言説を批判して常識と日常命題を擁護し、日常言語学派の発展に影響を与えた。『倫理学原理』(1903)では善の概念を単純・非定義的な基本概念と考え、それを「快楽」とか「真の自己実現」のような事実的性質で定義することを「自然主義的誤謬(ごびゅう)」と名づけて伝統的倫理学の諸立場を批判し、道徳の自律性を主張した。倫理概念の基本性や定義をめぐるムーアの批判的考察は、彼以降、英米で盛んになる、倫理言語の広義の論理学としての「メタ倫理学」の嚆矢(こうし)となった。ただし、ムーアは、何が善であるかの決定は直覚によるとし、また「人間間の愛情」と「美的対象の享受」を善とする規範的主張を同書の結論とし、目的論的な耽美(たんび)的功利主義を提唱したが、これは義務論者やプラグマティストとの論争を生んだ。著書はほかに『倫理学』(1911)、『哲学研究』(1922)、『哲学の主要問題』(1953)などがある。

[杖下隆英 2015年7月21日]

『深谷昭三訳『倫理学』(1977/新装版・2011・法政大学出版局)』『深谷昭三訳『倫理学原理』新版(1977・三和書房)』


ムーア(Henry Moore、彫刻家)
むーあ
Henry Moore
(1898―1986)

イギリスの彫刻家。ヨークシャーのカースルフォードに、坑夫の7人目の子として生まれる。初め同地の小学校の教師となったが、1917年、第一次世界大戦に一兵士として従軍、フランス戦線で毒ガスに冒され、本国に送還されたが、翌年再度従軍した。戦後リーズ美術学校からロンドンの王立美術学校に進み、ロンドン定住によって大英博物館を訪れる機会を得、古代オリエント彫刻やプリミティブな彫刻に初めて接して感銘を受け、ここを絶えず訪れることになる。この経験から彼の受けたものは終生続いた。「プリミティブ」ということばは「未開」を連想させて使いにくいが、「プリミティブ芸術」はそれなりに一つの完璧(かんぺき)な文明の所産だ、と彼はいう。価値の多元化した20世紀の文明における一つの重要な提起である。1933年、グループ「ユニット・ワン」の結成に参加、43~44年には聖マシュー寺院に聖母子像を制作し、以後いくつかの大作には群像がある。第二次大戦中、ロンドンの地下鉄の中で「防空壕(ごう)シリーズ」のデッサンを連作し、戦後も鉱山で働く地底の坑夫の姿を描き、対象と、それがそこにいる空間についての新しい造形観念を展開した。

 ムーアの作品は多様だが、基本的には「有機的抽象」ともいえる作風で、素材も材料もすべての対象は生命をもっていて、本質的に手に負えぬ存在としてみている。彼が「じか彫り」を強調するのもそのためで、作者はまるで不在であるかのように遠くにいて、すぐには結論を出さない。いわば、結論は、素材のあり方と、見る者に預けるという、相互の親頼関係を樹立しようとする。またムーアには、一つの作品で、大きく切断された複数の部分から構成されているものもある。これらの多くは野外に置くことが強調されるが、それも「もの」と空間との関係についての彼の考え方をよく示しているといえよう。

[岡本謙次郎]

『J・ラッセル著、福田真一訳『ヘンリー・ムア』(1985・法政大学出版局)』


ムーア(Wilbert Ellis Moore)
むーあ
Wilbert Ellis Moore
(1914―1987)

アメリカの社会学者。産業問題、社会変動論がおもな研究分野。ワシントン州に生まれる。リンフィールド大学、オレゴン大学を経てハーバード大学に進み、パーソンズ門下として機能主義社会学理論を学んで、1940年博士の学位を得た。ペンシルベニア州立大学の講師、助教授を経て、1943年プリンストン大学に移り、助教授を経て教授。初め人口問題に興味をもったが、しだいに産業化とそれの人間および社会への影響に関心を集中し、アメリカにおける産業社会学の確立に貢献した。そして、産業化現象を基盤として近代社会の構造と変動を巨視的にみる社会変動の理論の構築を目ざした。1964年ラッセル・セイジ財団に招聘(しょうへい)され、1966年にはアメリカ社会学会会長を務め、1970~1987年デンバー大学教授。主著は『産業関係と社会秩序』(1946)、『産業化と労働』(1951)、『社会変動』(1963)、『産業化の社会的影響』(1965)など。

[杉 政孝 2018年11月19日]

『松原洋三訳『社会変動』(1968・至誠堂)』『井関利明訳『産業化の社会的影響』(1971・慶応通信)』『T・ボットモア、R・ニスベット編、W・E・ムーア著、石川実訳『社会学的分析の歴史9 機能主義』(1986・アカデミア出版会)』


ムーア(Gerald Moore)
むーあ
Gerald Moore
(1899―1987)

イギリスの伴奏ピアノ奏者。若いころ名歌手の独唱会を聞き、ピアノ伴奏の魅力に取りつかれてこの道に進んだ。ロンドンを中心に活躍、シャリアピン、ハンス・ホッター、シュワルツコップ、フィッシャー・ディースカウなど多くの名歌手の伴奏を受け持ち、1967年に引退。歌い手の持ち味を十全に生かし、20世紀最高の歌曲伴奏者といわれた。著書に『伴奏者の発言』(1943)、『歌手と伴奏者』(1953)などがある。

[岩井宏之]

『大島正泰訳『伴奏者の発言』(1959・音楽之友社)』『大島正泰訳『歌手と伴奏者』(1960・音楽之友社)』『萩原和子・本澤尚道訳『お耳ざわりですか――ある伴奏者の回想』(1980・音楽之友社)』


ムーア(Marianne Craig Moore)
むーあ
Marianne Craig Moore
(1887―1972)

アメリカの女流詩人。セントルイスに生まれる。実験的な詩誌『アザーズ』(1915~1919)に属して、W・スティーブンズやW・C・ウィリアムズらと新しい客観主義的手法を開拓した。詩集『観察』(1924)によってT・S・エリオットに認められ、ダイアル賞を受け、1925年から1929年まで『ダイアル』誌編集者としてアメリカの前衛文学運動に寄与した。初期の有名な作品「詩」のなかで従来の叙情詩を否定して、「事務書類や教科書類」も詩から排除するのはよくない、と散文的伝統を強調した。『全詩集』(1951)でボーリンゲン賞、ピュリッツァー賞を受け、ほかに『ラ・フォンテーヌの寓話(ぐうわ)』(1954)の翻訳がある。

[新倉俊一]

『片桐ユズル訳『観察(抄)/選詩集(抄)』(『世界名詩集大成11 アメリカ』所収・1959・平凡社)』


ムーア(Stanford Moore)
むーあ
Stanford Moore
(1913―1982)

アメリカの生化学者。イリノイ州シカゴで生まれる。父が法学部教授を務めたバンダービルト大学に入学、当初は航空工学を選択したが、のち化学に転じた。ついでウィスコンシン大学に学び、1938年に有機化学分野で学位を取得した。翌1939年ロックフェラー医学研究所(現、ロックフェラー大学)に入る。第二次世界大戦中は陸軍に所属したが、終戦後ロックフェラー医学研究所に戻り、1952年に教授となった。

 同じ研究所のW・H・スタインとともにタンパク質の研究に取り組み、自動アミノ酸分析機を考案、ウシの膵臓(すいぞう)のリボヌクレアーゼのアミノ酸配列順序を完全に決定した。この業績によって、1972年に同僚のスタイン、アミノ酸配列と立体構造の関係について研究したアンフィンゼンとともにノーベル化学賞を受賞した。

[編集部]


ムーア(Bobby Moore)
むーあ
Bobby Moore
(1941―1993)

イングランドのプロサッカー選手。ボビー・ムーアとよばれる。本名ロバート・フレデリック・チェルシー・ムーアRobert Frederick Chelsea Mooreでボビーはニックネーム。4月12日、ロンドンのバーキングに生まれる。イングランド代表として108試合に出場した。「生まれながらのキャプテン」といわれ、冷静沈着なセンターバックとして知られる。22歳にしてイングランド代表のキャプテンに任命され、4年後の1966年に地元で開催されたワールドカップで優勝、エリザベス女王からジュール・リメ杯を受ける栄誉に浴した。所属クラブでは、1964年にウェスト・ハムWest Ham(イングランド)初のビッグタイトルであるFAカップ優勝、さらに1965年にはヨーロッパ・カップウィナーズ・カップを制した。1993年2月24日、病没。

[西部謙司]


ムーア(Henry Ludwell Moore、統計経済学者)
むーあ
Henry Ludwell Moore
(1869―1958)

今日の計量経済学、実証的経済研究への先駆的貢献をしたアメリカの統計経済学者。メリーランド州に生まれる。1896年ジョンズ・ホプキンズ大学で学位を取得し、同大学講師、スミス大学教授を経て、1902~29年コロンビア大学教授。既存の経済理論を、データを用いて実証的に検証しようとする彼の一連の仕事のうち、『経済循環――その法則と原因』Economic Cycles : Their Law and Cause(1914、邦訳書名『経済循環期の統計的研究』)では、景気循環を、農産物の収穫量に関する周期性の観測を通して、降雨量の循環性と結び付けて説明し、さらに、農産物の需要関数に関する実証的研究をも行った。のちに、経済理論と実証分析との統合という彼の考え方は、『総合経済学』Synthetic Economics(1929)なる著書によって集大成された。

[高島 忠]

『蜷川虎三訳『経済循環期の統計的研究』(1926・大鐙閣)』


ムーア(George Augustus Moore)
むーあ
George Augustus Moore
(1852―1933)

イギリスの小説家。アイルランド生まれ。青年時代パリに渡り、ゾラなどの文学者、モネなどの画家と親しく交わり、新しい大陸の芸術を肌で体験して帰国、フランス風の自然主義小説を根づかせようと努力した。その後にイェーツらとともにアイルランド文芸復興運動に参加したりしたが、晩年にはカトリックへの関心が強まり、宗教的な色合いの濃い小説を書いている。『役者の妻』(1885)、『エスター・ウォーターズ』(1894)のほか、自叙伝『ある若者の告白』(1888)などが代表作である。

[小池 滋]


ムーア(Thomas Sturge Moore)
むーあ
Thomas Sturge Moore
(1870―1944)

イギリスの詩人、著述家。もっぱら古典神話に準拠した古風だが高雅な調子の文体をもつ詩集『葡萄(ぶどう)園丁ほかの詩』(1899)、『選詩集』(1934)などで知られるが、木版画家でもあり、またW・B・イェーツの詩集『塔』や『螺旋(らせん)階段』の表紙の装丁者としても著名。コレッジョ、デューラー、ブレイクに関する評論もある。イェーツとの『往復書簡集1901~37』(1953)も有名。

[富士川義之]

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