ブロンテ(読み)ぶろんて

デジタル大辞泉 「ブロンテ」の意味・読み・例文・類語

ブロンテ(Brontë)

Charlotte ~)[1816~1855]英国の女流小説家長編小説ジェーン=エア」で有名。
(Emily ~)[1818~1848]英国の女流小説家。の妹。荒涼とした自然を背景に、人間の激しい愛憎を描いた小説「嵐が丘」で有名。
(Anne ~)[1820~1849]英国の女流小説家。末妹。小説「アグネス=グレー」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ブロンテ」の意味・読み・例文・類語

ブロンテ

  1. [ 一 ] ( Charlotte Brontë シャーロット━ ) イギリスの女流小説家。激情と強い反逆の精神が作品の基調をなす。代表作は「ジェーン=エア」。(一八一六‐五五
  2. [ 二 ] ( Emily Brontë エミリー━ ) イギリスの女流小説家。[ 一 ]の妹。詩人としても知られ、暗い情熱の世界を迫力をもって描く。悲劇小説「嵐が丘」によって知られる。(一八一八‐四八

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブロンテ」の意味・わかりやすい解説

ブロンテ(姉妹)
ぶろんて

シャーロットCharlotte Brontë(1816―55)、エミリーEmily Brontë(1818―48)、アンAnne Brontë(1820―49) イギリスの女流小説家姉妹。ヨークシャーソーントンのイングランド教会牧師の、それぞれ三女、四女、五女として生まれる。アンの生後3か月のときに、父が同州西方の小村ホーワースの牧師に任命され、一家はそこへ移った。ここは荒涼とした丘の広がる貧しい村で、その外れに教会と牧師館(現在は「ブロンテ博物館」となっている)が建っていて、姉妹たちは幼い時代からここで生活を送った。1821年に母が死んだのちは伯母に育てられた。24年シャーロットとエミリーは上の2人の姉とともに、近くの牧師の娘を安く預かる寄宿舎制度の女学校へ送られた。しかし費用が安いかわりに食事もろくに与えないひどい待遇のため、上の2人は病に冒されて翌年死亡、驚いた父はシャーロットとエミリーを家に連れ戻した。三姉妹は別の学校に入学するが、人間嫌いで恥ずかしがりやのエミリーだけは、すぐにホームシックにかかり帰宅した。父がひとり息子のパトリックPatrick Branwell(1817―48)のために買ってきた兵隊人形で遊びながら、みんなでいろいろな空想の物語をつくりだし、彼女らの文学の芽生えとでもいうべきものが、このころから生まれた。

 1842年にシャーロットとエミリーは、ベルギーの首都ブリュッセルの女学校に入り、のちにシャーロットはそこの助教師となり、校長のエジェに恋心を抱くが実らず、結局2人とも故郷に帰る。46年に3人の詩集自費出版するがまったく反響なく、わずか二部しか売れなかった。またシャーロットが『教授』、エミリーが『嵐(あらし)が丘』、アンが『アグネス・グレイ』と、それぞれ小説を書いたが、どこの出版社からも見向きもされなかった。しかしシャーロットはそれにもめげず、『ジェーン・エア』を書き、47年にロンドンで出版したところ、たちまちベストセラーとなった。これに反して同年やっと出版の運びとなった『嵐が丘』『アグネス・グレイ』はまったくの不評であった。

 当時は女性が小説を書くことが珍しかったころなので、これらの作品はすべて男性名のペンネームで出されたため、読者はもちろんのこと、原稿を受け取った出版社すら初めのうちは男の書いたものと考えていた。1848、49年とエミリー、アンが相次いで未婚のまま死亡、1人残されたシャーロットだけがロンドン文壇で新しい女流作家として名声を得、ブリュッセルの女学校での体験をもとにした『ビレット』(1853)などの小説を発表し、54年に父の教会の副牧師と結婚したが、翌年彼女も結核で世を去った。ともに薄命であったが、さまざまな悲運にも屈せずに、その才能の花を咲かせた三姉妹は、現在では広く世界中の読者から愛され、日本でも明治時代に紹介されて以来、多くの愛読者をもつ。

[小池 滋]

『阿部知二著『ブロンテ姉妹』(1957・研究社出版)』『野中涼著『ブロンテ姉妹』(1978・冬樹社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブロンテ」の意味・わかりやすい解説

ブロンテ
Brontë, Charlotte

[生]1816.4.21. ヨークシャー,ソーントン
[没]1855.3.31. ヨークシャー,ハワース
イギリスの女流作家。ブロンテ3姉妹の長姉。ヨークシャーの寒村の貧乏牧師の家に生れ,少女時代から空想的物語『アングリア』を弟ブランウェルや妹たちと共作するなど,創作に熱中した。一時は私塾経営を計画して,その準備にブリュッセルに留学。帰国後妹たちと共著の詩集を自費出版。小説に転じ,処女作『教授』 The Professor (1857死後出版) は出版社に拒否されたが,第2作『ジェーン・エア』 Jane Eyre (47) は大成功を収め,以後『シャーリー』 Shirley (49) ,『ビレット』 Villette (53) を書いた。 1854年牧師ニコルズと結婚。出産のために翌年死亡。激しい情熱がその作品の特徴。

ブロンテ
Brontë, Emily Jane

[生]1818.7.30. ヨークシャー,ソーントン
[没]1848.12.19. ヨークシャー,ハワース
イギリスの女流作家。シャーロットの妹。少女時代,姉や弟妹と一緒に空想的な物語を書くことに熱中。妹アンと共作した『ゴンダル物語』は現存しないが,これらによって培われた奔放な想像力は,詩作やイギリス小説の最高傑作の一つ『嵐が丘』 Wuthering Heights (1847) においてみごとに結実した。『囚人』 The Prisoner,『わが魂は怯懦ならず』 No Coward Soul is Mine (46) などによって,詩人としても特異な地位を占めている。

ブロンテ
Brontë, Anne

[生]1820.1.17. ヨークシャー,ソーントン
[没]1849.5.20. ヨークシャー,スカーバラ
イギリスの女流作家。ブロンテ3姉妹の末妹。姉とともに『詩集』 Poems by Currer,Ellis and Acton Bell (1846) を出版。続いて家庭教師の体験に基づく『アグネス・グレー』 Agnes Gray (47) や『ワイルドフェル館の住人』 Tenant of Wildfell Hall (48) などの小説を書いた。 29歳で結核のため死亡。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ブロンテ」の意味・わかりやすい解説

ブロンテ

英国の小説家。ブロンテ姉妹として知られる3人の長姉で,ヨークシャーの田舎の牧師を父とし,幼くして母を失った。当時の女性に対する社会通念への反逆者である同名のヒロインを描いた恋愛小説《ジェーン・エア》(1847年)をカラー・ベルCurrer Bellの筆名で発表し有名になった。ほかに《教授》(1857年),労働争議や社会問題を扱った《シャーリー》(1849年),自伝的な《ビレット》(1853年)などがある。そのフェミニズム的観点が高く評価されている。

ブロンテ

英国の小説家。ブロンテ姉妹の2番目。筆名エリス・ベルEllis Bell。世間から離れた生活の中で激しい想像力を育て,傑作《嵐が丘》(1847年)を書いた。すぐれた詩もあり,三姉妹合同の《詩集》(1846年)がある。

ブロンテ

英国の小説家。ブロンテ姉妹の末妹。小説《アグネス・グレー》(1847年),《ワイルドフェル・ホールの住人》(1848年)をアクトン・ベルActon Bellの筆名で書いた。2人の姉の存在によって影が薄かったが近年再評価の動きがある。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android