ブーエ
Simon Vouet
生没年:1590-1649
フランスの画家。パリ生れ。イタリアに長く滞在し(1612-27),カラバッジョの自然主義や,ボローニャのレーニ,グエルチーノなどの画風,さらにベネチア派の色彩などを学ぶ。1624年ころの〈フランチェスコ伝〉の場面(ローマ,サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会)がそのころの代表作。帰国後はルイ13世の宮殿装飾にあたり,また宗教画,寓意画などを数多く手がけ,古典主義風な構図を採用し成功をおさめた。プッサンの構図,シャンペーニュの明快な色彩を取り入れ,フランス的な洗練された画風をつくり上げた。40年プッサンがローマから帰ったとき,その宮廷画家の第一人者の地位は揺らいだかに見えたが,プッサンがすぐ戻ったため不動のものとなった。《聖母の奉献》(1641)は対角線を中心とする構図に短縮法や大きな雲などの表現が見られバロック的である。しかし,形態そのものは分割され動きが少なく〈古典主義〉的といえる。
執筆者:田中 英道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
Sponserd by 
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
Sponserd by 
ブーエ
ぶーえ
Simon Vouet
(1590―1649)
フランスの画家。パリ生まれ。父ローランから絵画の手ほどきを受ける。肖像画家として幼いころから有名で、ロンドン、コンスタンティノープル、そして1613年にベネチアを訪れる。翌年ローマに移り、27年まで滞在。初め明暗の対比が強調され劇的描写を特徴とするカラバッジョ的作品(1624、ローマのサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ教会の連作)を描くが、徐々に安定した構図で明暗の微妙な違いを表現するランフランコ、ジェンティレスキの影響を受ける。フランスに戻ると早速ルイ13世の首席宮廷画家に就任、寓意(ぐうい)画、歴史画、宗教画などをよくした。プサンがローマにあったため、フランスでの名声をほしいままにし、その工房からルブランをはじめとする次の世代の代表的な画家が輩出した。代表作にパリのオテル・セギュの装飾天井画、『ディドの死』(ルーブル美術館)など。
[上村清雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
ブーエ
Vouet, Simon
[生]1590.1.9. パリ
[没]1649.6.30. パリ
フランスの画家。 1611年コンスタンチノープルにおもむき,12~27年イタリアに滞在。ミケランジェロやカラバッジオの画風を学び,27年ルイ 13世の招請に応じてパリに帰って宮廷画家となり,フランスのバロックの画家の中心的存在となった。彼のアトリエから C.ル・ブラン,F.ペリエ,P.ミニャールらが輩出した。代表作『神殿への奉献』 (1641,ルーブル美術館) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
世界大百科事典(旧版)内のブーエの言及
【バロック美術】より
…他方,ミラノで修業したロンバルディア出身の[カラバッジョ]も,1590年ころローマにあって,リアリズムと明暗様式を特色とする宗教画によって大成功をおさめ,この両者の勢力がツッカロらの後期マニエリスムを圧倒し,新時代を画した。カラバッジョの流派からは,ジェンティレスキ,サラチェーニCarlo Saraceni(1579‐1620),マンフレディBartolomeo Manfredi(1587ころ‐1620か21),ボルジャンニOrazio Borgianni(1578ころ‐1616)など,迫力ある明暗様式の画家が輩出したほか,17世紀初頭にローマにあったオランダのテルブリュッヘン,ファン・ホントルスト,ファン・バブーレンDirck van Baburen(1595ころ‐1624),ドイツのエルスハイマー,フランスのバランタン・ド・ブーローニュ,ブーエ(彼はボローニャ派との折衷派であった),いわゆる〈[バンボッチアンティ]〉と呼ばれた北方出身の風俗画派のリーダーでオランダ人のファン・ラールPieter van Laer(1599ころ‐1642ころ)などは,みなカラバッジョ主義者となり,各々自国にこの様式を伝え,17世紀ヨーロッパ芸術の土台をつくった。 ローマ・カトリック教会が安定期を迎えるに及んで,教皇ウルバヌス8世(在位1623‐44)の信任をうけた巨匠[ベルニーニ]の登場とともに盛期バロック期に入る。…
※「ブーエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
Sponserd by 