バロック美術(読み)バロックびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「バロック美術」の意味・わかりやすい解説

バロック美術 (バロックびじゅつ)

一般には,17世紀初頭にイタリアのローマで誕生しヨーロッパ,ラテン・アメリカ諸国に伝播した,反古典主義的な芸術様式をいう。

 バロック(フランス語でbaroque,イタリア語でbarocco,ドイツ語でBarock,英語でbaroque)という語の由来については2説ある。一つはイタリア語起源説で,B.クローチェによると,中世の三段論法の型の一つにバロコbarocoと呼ぶものがあり,転じて16世紀には不合理な論法や思考をバロッコbaroccoと呼ぶようになった。さらに17~18世紀には反古典的な思想・芸術の呼称となった。イタリア語の場合は名詞である。他方,ワイスバハW.Weisbachらによれば,この語は元来〈不完全な形の真珠〉を意味するポルトガル語バローコbarroco,スペイン語バルエーコbarrueco,ベルエーコberruecoに由来し,18世紀に文芸・美術批評の術語としてフランス語の形容詞として使用されるようになった。

〈バロック〉という概念が,18世紀のイタリア・フランスの芸術批評において,17世紀の特定の芸術様式をさす軽蔑的な表現として使用されたことが,この時期の両国の用語辞典によって明らかである。フランスの《建築歴史辞典》(1788)の〈建築〉に関する項目でカトルメール・ド・カンシーA.C.Quatremère de Quincyは,バロックを〈ビザールbizarre(奇妙なもの)の一種で,洗練された風変り,その濫用〉と定義しており,他方ミリーツィアF.Miliziaによるイタリアの《美術辞典》(1797)も,比例,均衡等の古典的規範が守られていない〈堕落した趣味〉をバロックと呼んでいる。カトルメール・ド・カンシーをはじめとするフランス18世紀の美術批評家は,アカデミズムの理念に立っており,またイタリアのミリーツィアは,古典古代とルネサンスの芸術を最高の規範とし17世紀の芸術を堕落と考えたウィンケルマンの思想に傾倒した新古典主義の批評家であった。このように美術批評におけるバロック概念は,古典様式と明白に対立した17世紀のベルニーニ,ピエトロ・ダ・コルトナらの芸術を否定する,18世紀イタリアとフランスの新古典主義的批評家たちによって形成されたものである。これが,今日多様化しているバロック概念の原点である。したがって,バロックとは1630年代に最盛期を迎えたイタリアの造形芸術の一傾向を指すものであり,その傾向とは,正統的で完全な古典的形式に対立する,誇張,過剰,不規則などを特色とする非正統的な形式をいう。

 アカデミズムと新古典主義が支配力を弱めた19世紀末にいたって,バロックは再評価されたが,それは,バロックと呼ばれた芸術様式を〈非正統〉とは考えなくなったという,趣味,思想,あるいは芸術創造上のコンセプトの変革によっている。芸術批評史において,ウィンケルマンと新古典主義者が古典主義を唯一至上の原理としたのに対して,ドイツ・ロマン主義者や,ニーチェ,ワーグナーなどゲルマン系の思想家の間に,ラテン的古典主義に反して,ゲルマン的情念を定立させようとする気運が生じ,これがウェルフリン,バール,ワイスバハなどゲルマン系の美学者をして,バロックの復権を行わせたのである。彼らは,古典主義と対立し,かつこれと並ぶ第二の美の様態があることを主張し,バロックにルネサンスまたは古典主義と同等の価値を与えた。また,フランスでは,18世紀のルソーにすでにその思想の萌芽があり,ロマン派の支持者であったボードレールはルーベンスやレンブラントを称揚し反アカデミズムの美学を盛り上げた。さらには,なににもまして,印象主義からフォービスムにいたる現代芸術の革新的実践が芸術上の価値観を転倒させ,過去への文化に対する価値評価の転換を迫ったものと考えることができる。

 このように,20世紀はバロック再評価の時代となったが,この再評価の動機が多様であるように,現代におけるバロック概念も一律ではない。第1の傾向は,ルネサンスにつづく次の時代の芸術を反古典主義,すなわちバロック様式とみる見方であり,代表的著作としてウェルフリンの《ルネサンスとバロック》(1888),《美術史の基礎概念》(1915)があげられる。この見方は,ルネサンスとバロックを対立するビジョンとして分類し,バロック概念を抽象化する端緒をなした。第2の傾向は,人類の歴史を通じて恒常的に〈古典主義〉と対立する反古典的なスタイルがあるとして,普遍的な概念としてバロックを定立させる見方であり,スペインのドールスE.Dorsによる《バロック論》(1945)がその代表的著作である。フォシヨンもまた,あらゆる文化において古拙,均衡,過剰の3段階があり,バロックはその最終段階にあたると考えた(《形の生命》1934)。第3の見解は,バロックをマニエリスムの終結から,新古典主義の開始にいたるまでの歴史的な時代,およびこの時代の文化,芸術についてのみ,適用するというものであり,これは,マニエリスムの再発見と再評価をまって,16~17世紀の歴史的事実とそれについての判断がしだいに明確になった20世紀後半において,ようやく優勢を占めてきたものである。以上のように,バロックは今日,様式概念,普通概念および時代概念の3通りの用い方をされている。

18世紀末の批評家が〈ビザール〉と定義した,1630年代に最盛期にあったバロック美術の様式上の特質は,建築における曲面と流動的空間,彫刻における人体のダイナミズムの極限的表現,絵画における光と色彩と対角線構図の強調,さらに,建築,彫刻,絵画等のすべてのジャンルを融合させた統一的な演劇的空間の創造などであった。ウェルフリンは,これらを〈絵画的〉〈深奥的〉〈不明瞭〉〈開放的〉〈統一的〉なビジョンと定義した。これはルネサンス美術の根本原理である〈線的〉〈平面的〉〈明瞭〉〈閉鎖的〉〈多様的〉と対立するものであると把握された。これは本質をつく見解ではあるが,今日では克服された一面性をもっている。なぜならば,ルーベンスの画面は開かれた空間をもっているが,つねに対角線によるバランスと調和を保っており,プッサンは深奥的であるが構築的である。またウェルフリンのいう反古典主義の最も典型的な作例はマニエリスムの芸術,たとえばティントレット,エル・グレコ等にみることができる。すなわち,ルネサンスとバロックの間にマニエリスムを認めることによって,バロックはマニエリスムの反古典的方向を止揚し,ルネサンスの秩序と形式を一部回復させようとしたものであることが明らかになった。このことは,ルーベンス,カラッチ,ピエトロ・ダ・コルトナ,プッサンなどが〈新ベネチア派〉とも呼ばれているように,16世紀前半のベネチア派,とくにティツィアーノの芸術からもっとも深い影響を受けていたことによって証明される。レンブラント,ベラスケスもまたベネチア派と深い関係をもつ。彼らは,ベネチア派から,直接的で,感覚的な自然主義を摂取し,知的,象徴的なマニエリスムを止揚した。リアリズム(写実主義)への復帰,これがバロックの第一の共通根である。

 このリアリズムを実現するにあたって,芸術家はローマやトスカナの知的体系化によらず,ベネチア派の光と色による経験的,感覚的表現を選んだ。それは,17世紀の,万物が秩序あるものとして把えられるという知的体系が姿を消し,万物を変転する現象として感覚的に把握する経験主義が目ざめたためである。ここから,その表現方法は,光,色彩,ムーブメント(動勢)とタッチによる,ウェルフリンのいう〈絵画的〉様式をとることになる。バロック美術の中でもっとも主要な役割をはたす光は,万物が現象として,われわれの眼に映ずるものだという世界認識の造形的なあらわれであり,明暗の強調やクローズアップ手法,アトモスフィアや色彩の微妙な諧調のみごとな表現など,バロックの最大の成果とされる手法は,見ることの主体性が確立された近代の意識を表している。また,風景画,静物画がはじめてこのときにジャンルとして独立したのも,一つには万物に対する関心が深まったことのあらわれである。以上の特質を,ルネサンスの〈知的リアリズム〉に対して,〈視覚的リアリズム〉と呼ぶことができる。

 しかし,バロック様式には,明らかに表現主義的な傾向が認められる。斜線や曲面の偏愛,過剰な運動と極端な情動表現,すべての要素におけるコントラストの強調などがそれであり,これらはすべて,観者の,ある強い理念もしくは感情に訴えかけるためのしかけである。バロックは人間の〈情念〉の描出にはじめて目ざめた時代であったといえよう。このため,法悦や苦悩,歓喜や親愛,怒りや憎しみなどを訴えかけるための新たなイコノグラフィー(図像体系)が誕生した。これは,アトリビュート(持物)やシンボルをもって観念を表現する16世紀までのイコノグラフィーに対する変革であり,バロックの最も大きな成果の一つである。知的なシンボル化によってではなく,感覚的な真実感を強力に訴えかけることによって,観者の感情を移入させようとするさまざまなレトリックが,バロック美術のすべてのジャンルに見られる。これらの図像は新たな象徴の体系を形づくっており,その点において,真に近代的な(19世紀の)自然主義とは明白に一線を画している。ルーベンス,ベラスケス,レンブラント等の作品の多くは,自然主義的な真実をもって描かれた象徴画であることが明らかにされつつある。このような情念の表現形式の創造がこの時期に行われたのは,この時代の精神が古い象徴の体系によっては表現されえなくなったためである。

バロック美術における以上の特質を生み出した背景のうち最たるものは,古代ギリシア,ローマの思想および中世スコラ哲学,ルネサンス人文主義を通じて変わらなかった人間中心の宇宙観の変化である。前1世紀のウィトルウィウスからレオナルド・ダ・ビンチにいたるまで,人体比例,空間秩序の根底にあたったものは,人間と宇宙との間に調和的な対応関係をみとめる天動説的宇宙観であったが,これは,まさにこの時代に地動説的世界観にとって代わられる。この新たな宇宙観は,動き回る無限の宇宙と微小な人間存在という両極の中に成立する。さらに16世紀にあい次いだ地理上の発見に伴う新世界との接触は,ヨーロッパ人の世界像を拡大した。そのような背景の中で,ルネサンスの幾何学的で明晰な空間構造とはまったく異質の,バロックの無限空間,ダイナミックなビジョンが創出されたのである。ロイスダールの広大な空,レンブラントの深い闇,カラバッジョの暗黒,ルーベンスのふるえるアトモスフィア,ベラスケスの深奥的構図は,共通の世界感情から生じたものである。

 第2に,16世紀末にすでに進行しつつあったヨーロッパの絶対主義化が17世紀に完了し,オランダの独立をも含め,ヨーロッパ諸国の独立性が確立され,絶対主義を成立せしめた要素(王権の強化,中産階級の成立,国民性の自覚)が,ときに国家的,ときに民衆的,市民的レベルで独自の文化の成立を要求したことがあげられる。このようにして,スペイン,フランスの主権の栄光をたたえるために,豪華壮大な権力的芸術が成立する一方,社会のより低い階層を代表するリアリズムを生み出すことになった。バロックの現象面での多様性は,中産階級が新たなパトロンとして登場してきたことに由来する。ルネサンス期,マニエリスム期においては,芸術は上層のエリートによってのみ享受されるものであったが,絶対主義国家の運営のためには大衆文化をつくり出すことが必要であった。

 第3の,通常もっとも直接的な,バロック様式発生の要因とされる哲学は,16世紀にヨーロッパを二分した宗教改革と,ローマ・カトリック教会の変革運動である反宗教改革である。まず,プロテスタントは教会に聖像を置くことを禁じ,聖母,聖人の崇拝をも含むカトリックの教義の多くを否定し,人文主義のもたらした道徳的態度を糾弾した。この結果,プロテスタント諸国では,非宗教画,すなわち世俗的主題が黄金時代を迎え,他方では,公式的ドグマから分離した内面的,近代的信仰画の図像が形成されることとなった。一方,この粛清(しゆくせい)はカトリック側の芸術にも深刻で永続的な影響を与えた。カトリック側に起こった反応のうち最大のものは,プロテスタントが否定した聖像を,逆に布教プロパガンダの武器とすることにあった。ここから,周到なプログラムにもとづいた近代的キリスト教図像の再編成が意図されることになった。トリエント公会議(1545-63)が終結したのちに,この新プログラムが発足するが,バロック美術は,この後に生まれた世代によって形成,推進された。この新芸術には,プロテスタントの攻撃を避けるために,教義的正統性と倫理的統制によって武装し,さらに攻撃性と説得力をもって万人の感性に訴えかけることが要請された。ここから,宗教的体験を,錯覚的なリアリティーをもって現実と感じさせるためのあらゆる演劇的装置が生まれた。プロテスタント,カトリックのいずれを問わず,この危機の時代のメッセージを伝えようとするために,〈情念〉の表現の様式が発生したのである。とくにイグナティウス・デ・ロヨラ,ネリF.Neriなど反宗教改革期の布教に活躍した宗教家たちの思想が,バロック宗教画の形成にあずかって力があった。

以上にのべた固有の特質を備えた美術が完全な形で発展した時期は,ローマでは1630年代から18世紀半ばの新古典主義の発生までである。しかし,すでに1585年ころから,〈プロト(先期)・バロック〉と呼ばれる,マニエリスムとは明白に異なる芸術が生まれている。それは,ボローニャにアカデミアをつくったカラッチ一族(最大の人物はアンニバレ)によるベネチア派とラファエロを統合した新しい歴史画,宗教画の創出であって,これは〈バロック古典主義〉の祖となった。同じころ,カラバッジョは北方的リアズムと強烈な明暗法による深刻な表現によって,近代的宗教画の祖型をつくり,ルーベンスはバロック的祭壇画のイディオム(ダイナミックな構成,官能的魅力,絵画的手法)を用意した。この3巨匠を中心として,各国に国民的様式の胎動がおこる。

 1630年代に入ると,カトリックは布教においても,反プロテスタント運動においても一応の安定を見,〈勝利の教会〉と呼ばれるにいたり,この期を境として宗教芸術は豪華さと壮大さをねらう〈大様式〉へと変質する。〈狭義のバロック〉あるいは盛期バロックと呼ばれる1630年代ローマの成熟した芸術様式は,プロト・バロックの諸傾向(リアリズムと理想主義)に比べて,演劇的,装飾的な空間構成をもつことを特色とする。しかし,30年代には,このような様式と並行して,N.プッサンの代表する古典主義的傾向も重要な一派を成した。フランスの美術史家はこの流派をバロックと呼ぶことを好まず,フランスにバロックはなかったとする学者も多い。すなわち,彼らは〈バロック〉をベルニーニらの〈1630年代様式〉としてのみ用いているのである。しかし,プッサンはアンニバレ・カラッチとベネチア派の後継者であり,その芸術の本質においてピエトロ・ダ・コルトナおよびサッキと異なるものではない。

 発展段階の第3期は,芸術の中心がイタリアからフランスに移り,1648年王立絵画・彫刻アカデミーが成立したころから明らかになったアカデミズムによって特徴づけられる。しかしこれは他の諸国には必ずしも適用できない。オランダ,スペインは終始独自の発展を続けており,おくれてバロックが伝播したゲルマン諸国およびラテン・アメリカ諸国では,バロック様式が開花するのは18世紀のことである。

イタリアでは16世紀末に後期マニエリスムが支配的であった。これは反宗教改革の図像統制下に置かれたため,前期マニエリスムの官能的,主観的表現を捨て去った擬古典的な形式を特色とするもので,ローマの大事業を占有していたカバリエル・ダルピーノCavalier d'Arpino(1568-1640)とフェデリコ・ツッカロを代表とする。一方,北イタリアのボローニャの後期マニエリスト,ルドビコ・カラッチ(カラッチ一族)はベネチア派とエミリア派(コレッジョ)を研究し,その従弟アゴスティノ,アンニバレの兄弟とともに1582年アカデミア・デリ・インカンミナーティを創設して芸術家の指導にあたった。アゴスティノはラファエロなど古典の版画制作にすぐれ,アンニバレは自然描写に長じ,古典的構成,明るい色彩による〈アルカディア的情景〉に天才を示し,ローマのファルネーゼ宮殿の天井画(フレスコ)によって,復活したルネサンス様式を示した。これは,バロック的装飾画の最初の例である。カラッチ一族のアカデミアからはレーニ,ドメニキーノ,アルバーニFrancesco Albani(1578-1666),ランフランコ,グエルチーノなどが輩出し,彼らはいずれも1600年ころローマに出て,ローマ彫刻の雄壮さとベネチア派の色彩と自然主義を併せもつ大様式の画派(ボローニャ派)を形成した。他方,ミラノで修業したロンバルディア出身のカラバッジョも,1590年ころローマにあって,リアリズムと明暗様式を特色とする宗教画によって大成功をおさめ,この両者の勢力がツッカロらの後期マニエリスムを圧倒し,新時代を画した。カラバッジョの流派からは,ジェンティレスキ,サラチェーニCarlo Saraceni(1579-1620),マンフレディBartolomeo Manfredi(1587ころ-1620か21),ボルジャンニOrazio Borgianni(1578ころ-1616)など,迫力ある明暗様式の画家が輩出したほか,17世紀初頭にローマにあったオランダのテルブリュッヘン,ファン・ホントルスト,ファン・バブーレンDirck van Baburen(1595ころ-1624),ドイツのエルスハイマー,フランスのバランタン・ド・ブーローニュ,ブーエ(彼はボローニャ派との折衷派であった),いわゆる〈バンボッチアンティ〉と呼ばれた北方出身の風俗画派のリーダーでオランダ人のファン・ラールPieter van Laer(1599ころ-1642ころ)などは,みなカラバッジョ主義者となり,各々自国にこの様式を伝え,17世紀ヨーロッパ芸術の土台をつくった。

 ローマ・カトリック教会が安定期を迎えるに及んで,教皇ウルバヌス8世(在位1623-44)の信任をうけた巨匠ベルニーニの登場とともに盛期バロック期に入る。彼は絵画,彫刻,工芸を建築空間の中に総合して幻惑的なバロック空間をデザイン,ローマの改造計画に参画してサン・ピエトロ広場をはじめとする演劇的都市を実現させた(建築家ボロミーニが協力)。彼らに画家ピエトロ・ダ・コルトナが協力して作り上げたバルベリーニ宮殿大広間は盛期バロックの代表作である。ベルニーニに続くすぐれた芸術家としては,彫刻家アルガルディ,デュケノア(フランドル出身)などがあり,彼らはまた名人芸をもつインテリア・デザイナーや金工家らと協力して,スタッコや金めっきを駆使した絢爛豪華なバロック的空間を創出した。このようなバロック的空間の究極の例は,バチッチアおよびポッツォによるイリュージョニスティックな大天井画である(イル・ジェスー教会など)。ポッツォはオーストリア(ウィーン)にこの手法を伝えた。

 17世紀末,ローマの絵画には通俗的なラファエロ主義のマラッタによって代表されるアカデミズム化が見られるが,地方には写実的傾向をもつ無数の小画家が輩出し,カラバッジョ主義の色濃いナポリ,フランドル派の影響下のジェノバでは,このころ初めて独自の画派が形成された。また北方のトリノでは17世紀末から18世紀にかけて,ユバラ,グアリーニなどの大建築家が輩出し,装飾画家,スタッコ・デザイナーも空前の盛況を呈した。

スペインは,その植民地であったナポリを通じて直接にカラバッジョ主義をうけ入れ,J.deリベラ,スルバラン,ベラスケスなどはその影響のもとに,エル・グレコを代表とするマニエリスムを克服した。このうち,フェリペ4世の宮廷画家であったベラスケスは,ルーベンスとベネチア派の強い影響のもとに円熟した絵画様式を確立し,バロックにおける最大の画家の一人となった。彼はマドリードにあって,バロック的体制の一方の権力,すなわち絶対王政の秩序と安定を代表する立場にあった芸術家といえよう。一方スペインでは,バロックにおける今一つの権力,つまりカトリックもきわめて強い勢力を有していたため,教会と修道院を中心とする空間芸術は,イスラム文化の形式感覚と合体して,空前の繁栄をみた。チュリゲレスコがその典型である。リベラおよびスルバランは反宗教改革の内省的精神と真実な信仰の表白者である。彫刻においてもカスティリャのフェルナンデス,セビリャのマルティネス・モンタニェースは,彩色木彫によって情動的な〈哀しみのマリア像〉を作り,ベラスケスの弟子カーノもまた民衆にアピールする甘美でセンチメンタルな宗教像を作った。これらのスペインの彫刻は,民衆の熱烈な信仰のもっとも民俗的な表出である。17世紀後半にセビリャで活躍したムリーリョもまた,反宗教改革の求める民衆的宗教団体の大成者であった。とくにセビリャ大聖堂の《無原罪のお宿り》には,近代カトリシズムのプロパガンダ様式のすべてがつくされている。

17世紀初頭にオランダが独立を達成してのち,フランドルはスペイン王の娘イサベラとその夫アルブレヒトの統治下にあって,スペイン王権とカトリシズムの支配下にあった。プロテスタンティズムを信奉する共和制のオランダと眼前に相対していたため,スペイン王権とカトリックの大様式のうちもっとも強力な芸術がこの地に生まれたのも偶然ではない。スペインとローマ・カトリック教会はその正統性の造形的表示としてラテン文化の伝統を重んじ,ルネサンスの後継者であることを誇示したが,この文化的役割を果たしたのがルーベンスである。彼は1600年から8年間イタリアにあり,ベネチア派とローマ派のルネサンス様式およびカラッチ一族とカラバッジョのバロック様式を吸収し,油彩の名人芸を駆使して,圧倒的な現実感をもつ壮大なドラマを次々と描き上げた。その主題は,活性化された近代的な宗教画のほか,マリー・ド・メディシス伝など王侯の栄光化の主題,肉感的な神話画,宇宙的なひろがりをもつ風景画などで,そこにはバロック的感性が最大限に発揮されている。弟子のファン・デイクは師の手法をイタリア,イギリスに伝えた功績をもつ。

フランスでは17世紀の初頭まで,マニエリスムのフォンテンブロー派が尾を引いていた。カラバッジョ派のバランタン・ド・ブーローニュがまず清新の気を伝え,風俗画のル・ナン兄弟,明暗様式のG.deラ・トゥールなどが〈プロト・バロック〉を代表する。彼らはカラバッジョやリベラと同じく,極度に技巧化したマニエリスムを克服し,現実生活に眼を向けた精神の革新のモメントを代表しているといえよう。これに合せて,古典的伝統を踏まえた大様式が王宮を中心に栄える。1627年にイタリアから帰ったブーエがルイ13世の宮廷画家となった時期が,フランスにおける公的芸術の始まりといえよう。また,ルイ14世の即位(1643)後に,王権の示威であるベルサイユ宮殿の造営が国家的事業として開始される。この間のフランス・バロックのもっとも重要な特色は,建築,彫刻,作画,工芸,造園の総合的演出のもとに,壮大と秩序と豪奢を追求したことである。1648年王立絵画・彫刻アカデミーが設立され,ブーエの弟子ル・ブランがその中心人物となる。コルベールは織物,陶磁器,木工,金工の大工房を保護し,王立家具製作所(ゴブラン製作所)をル・ブランに指導させ,〈ルイ14世一代記〉などの豪華なタピスリー連作を作らせた。家具においても,ダイナミックな曲線様式を特色とするルイ14世様式が起こり,ファンタスティックなアラベスクやカルトゥーシュの奔放なデザインが,この時代の趣味を代表することとなった(ルイ王朝様式)。これらはいずれも,最初はイタリア人およびその様式が支配的であったが,しだいにフォンテンブロー派以来のフランス的優美さと洗練に向かい,18世紀に入るとともにロカイユに移行する。ベルサイユ宮殿の庭園を飾ったのは,フランス・アカデミズムのもっとも典型的な彫刻家ジラルドンである。彼の作品にはヘレニズム期の作品と共通する宮廷的優美さがあり,その作風は,カトリック的激情を表現するピュジェをおいて,フランスの彫刻の主流となった。

 ルイ14世時代には,多くの点で,イタリアやスペインのカトリック的バロックの激情とは一線を画し,宮廷的品位を保とうとする文化的努力が看取される。この政策が端的に示されるのは,ピールR.de Piles等のアカデミックな美術批評の理念であり,彼らはここでイタリアのバロック的傾向に抵抗し,古代とラファエロを尊重するとともに,N.プッサンの〈アッフェッティaffetti(情念)論〉を称揚し,フランス美術を方向づけた。プッサンは1624年からローマに住み,同地の〈新ベネチア派〉に属するが,修業時代に研究したフォンテンブロー派の田園牧歌画の様式を発展させ,広大な空間に小さい人間像を配し,永遠の時代と人間の誇りとをともにたたえる倫理性の高い独自の芸術を創始した。ストア派的英雄を主とするプッサンのテーマは,カトリックの法悦的表現の道具というよりは,王権下の秩序と品位ある市民のモラルとを称揚したもので,その芸術はフランスの国家的気運と合致し,19世紀にいたるまで同国の美術の骨格をなす伝統となった。

 フランスの後期バロックは,1690年のル・ブランの死と,それにつづくミニャールのアカデミー院長就任によって区分される。ミニャールはイタリア・バロックの色彩が強く,次の院長A.コアペルはルーベンスとレンブラントの信奉者であった。このようにして,18世紀に入るとともに,フランスはルーベンス派,すなわちバロック美術のもっとも洗練された傾向の継承者となった。ロココ美術はその延長上にあったと考えることができる。

17世紀初頭に独立を果たしたオランダは,そのカルビニズム(芸術上では聖像の否定)と共和制によって他の諸国から区別される。芸術もまたその体制の影響下にあり,他の国々において中心をなした二大テーマ,すなわち王権と教会の栄光化という課題は,オランダから除外される。これに代わって同国では,集団肖像画(フランス・ハルスら),街景画(フェルメール,ファン・デル・ヘイデンら),室内画,風景画,静物画,風俗画などのジャンルが,それぞれ独立した分野をなした。そのうち室内画は,教会ではなく家族とそのモラルを信仰の基礎に置くプロテスタントが神聖視した主題として大いに発展した。フェルメールはこの分野の巨匠である。風景画には,川や風車,海や船を描いたものが多く,いずれもオランダの市民生活を支えた自然や産業を表している。次に,聖像をあからさまに描くことができなくなった画家たちは,ワイン,パン,貝殻,魚などを題材とした静物画によって,聖なるものを象徴したと考えられる。加えて,日常的生のディテールに対する愛着が,これらの静物画を最高の完成度に導いたのであろう。市民の日常生活に取材した風俗画においても,しばしば政治的,宗教的メタファー(隠喩)が入り込み,深い解釈を必要としている。公的聖像芸術は制作されなくなったものの,内面的信仰告白としての宗教的絵画がこの国に起こった。レンブラントはその代表的画家である。

 以上のすべてのジャンルにわたって,リアリズムがその特色をなしたが,それと同時に,画面には独自の象徴が隠され,この点において,オランダ17世紀絵画は18世紀以降の近代的リアリズムと区別される。また,光と色彩による印象主義的ビジョンが,これらのすべての作品の特徴であり,これは,一見して異質と思われる他の諸国の美術に共有されるバロック的特質である。

17世紀半ばまで宗教戦争によって荒廃したゲルマン諸国は,18世紀にいたってようやくイタリアおよびフランドルのバロック美術を受け入れ始めるが,この時期をロココ美術の領域に分類することが旧来の常識とされていた。しかし,現象的に見れば,これは17世紀にローマで栄えた諸要素の北方的展開であって,バロック美術の広い流れの中に位置づけるべきであろう。17世紀はゲルマン文化の確認の時期にあたり,ドイツでは,カラバッジョ主義の明暗効果をとり入れ,これにロマン主義的抒情性を結びつけてすぐれた宗教画を描いたエルスハイマーが傑出している。これは,ゲルマンの精神とラテンの形式との幸福な結合であった。シュリューターは彫刻と建築装飾の分野で,ゴシック,マニエリスム,バロックの手法を総合してゲルマン民族に特有のパトスを表現した。17世紀以降,ポッツォをはじめ数多くのイタリアの芸術家,職人がゲルマン諸国の宮殿,教会堂造営のために移住し,18世紀には空前の活況を呈する。

 ゲルマン諸国におけるバロック美術の第1の特色は,ゴシックの根強い伝統が残る土地に,ラテン起源のバロックを融合させるという点にあった。したがって,バロックの中でも,ボロミーニ,グアリーニのような本来〈新ゴシック〉的性格を備えている建築空間がとり入れられ,造形芸術においても,バロックの超自然的,法悦的局面が受け入れられ,これが土着の伝統と合流して〈フランボアイヤン(火炎式)・バロック〉ともいうべき頂点を形づくることになった。第2の特色は,第1の特色と深くかかわっているが,建築,彫刻,絵画,工芸の全分野を一つの意図のもとに統一し,空間全体を法悦的幻想の舞台装置と化するという点にある。アザム兄弟によるローアの《聖母被昇天の祭壇》(1722)などは,空間全体を動員したイリュージョニスティックな宗教劇である。
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一般にバロック建築と称するのは,1580年代以降,18世紀前半にかけてのヨーロッパ建築全般の傾向である。本来バロックという概念で捉えるべきは,この時代のはじめにイタリアに起こり,ついでアルプスの北方へと伝播された新しい空間の構成法であるが,今日では広く一般にこの時代に属する建築についてこの言葉を用いている。さらに生み出されたものの豊かさを考えれば,18世紀後半までつづく,ラテン・アメリカのそれをも合わせ考えるべきであり,スペインのバロック建築が,ラテン・アメリカの前スペイン期文化の深い影響を受けていることも含めて,バロックとその生み出したものは,今後,たんにヨーロッパの枠の中にとどまらない,グローバルな視点で捉えていく必要があろう。

 バロック建築は,言うまでもなく,この時代の権力構造,すなわち反宗教改革によって体制を整え直した教皇庁を中心とするカトリック勢力と,しだいに力を蓄えてきた絶対王制とを背景として成立したものであり,そこに宗教と国家を飾る壮大な空間が求められた。バロック建築が示すさまざまな特徴,すなわちマッス(量塊)の感覚,ドラマティックな表現,壮大なビスタや軸線の強調,ゆたかな装飾,光と錯視を利用しての無限感の演出といったものは,すべてここに起因している。しかし,一方,ルネサンスからマニエリスムへの時代の流れを考えると,そこに必然的な発展のベクトルがあるかに見えることも否定できない。すなわち,静から動へ,有限の限り取られた空間から無限の広がりを感じさせる空間へ,盛期ルネサンスの古典的完結から,ゴシックまでを容認するような自由な思考へといった展開には,たしかにある脈絡があって,その過渡的な段階をも指摘できるのである。

 建築におけるバロック的な傾向がいち早く現れたのは,言うまでもなくイタリアであり,この新しい傾向にはじめて明確な表現を与えたのは,C.マデルノである。彼がデザインしたローマのサンタ・スザンナ聖堂のファサード(1595-1603)は,彫の深い構成に量感があふれ,中央部を強調したデザインに,16世紀末のマニエリスム建築に見られなかった統一感が達成されている。ブラマンテ以来,集中式会堂として造り続けられてきたサン・ピエトロ大聖堂も,彼が主任建築家のときに前面に大身廊を付加し,方向性の強いバシリカ式の会堂に造り変えられている。マデルノについでイタリア・バロックの盛期を代表する建築家は,彫刻家としても高名なG.L.ベルニーニF.ボロミーニである。この性格も作風もともに正反対の2人の建築家は,盛期バロックの偉大な建築を二分した。ボロミーニの作風をもっとも端的に示すのは,サン・カルロ・アレ・クアトロ・フォンターネ聖堂の内部であって,ここではマニエリスムの時代にはじまる楕円形の平面が,うねるようなカーブを描く壁面によって変形され,そこに生まれた揺れ動く空間が,錯視の効果によって,はるかな高みへと吸い上げられていく。

 こうした空間の原型は,ひとつにはミケランジェロの彫塑的な手法に,またひとつには古代ローマの建築に求められよう。ミケランジェロは時代を超えてバロック的な表現をいちはやく示唆したし,また古代ローマの遺構には,バロックにも共通な空間構成が明らかに認められる。バロックの建築家は,ルネサンスの建築家とは別の観点から古代ローマの遺跡を見たのである。さらにバロックの精神は古代ローマのスケールの感覚に迫ろうとしたし,ローマ後期のスペクタクル的な空間は,バロックの都市空間の祖型となった。またボロミーニがルネサンスでは拒否されていたゴシックを思わせるリブ架構に関心を示したのも興味あることで,これはイタリア後期バロックの建築家,G.グアリーニに受け継がれ,トリノに無数のリブが錯綜する独特なバロックを開花させた。いっぽうベルニーニは,ローマのサンタ・マリア・イン・バリチェラ聖堂の内部に見るごとく,建築空間と絵画,彫刻が一体となった幻想の世界に光を巧みに導入して劇的な空間を演出した。彼の,やはり楕円を使ったローマのサンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂(1658-70)は,ボロミーニのサン・カルロと並ぶ珠玉の作品だが,サン・ピエトロ大聖堂の内部にバルダッキーノ(大天蓋)と祭壇装飾を加え,この途方もなく大きい空間に焦点と強い軸線を造り出したこと,またその正面に,楕円形の巨大な広場を付け加えて,その劇的な正面性をいっそう高めたことに,都市的なスケールで仕事をすすめたバロックの建築家の姿を見ることができる。

 すなわちバロック建築を考えるには,都市という視点が必須であり,この時代,建築の内部空間とファサードは,どの時代にもまして都市空間との密接なかかわりの上に組み立てられた。建物のファサードを整えるということは,すなわちそれが面する広場の空間の再編成を行うことであり,こうして数々のモニュメンタルな噴水に彩られたローマのバロックの広場群が生まれた。なかでも,少し遅れて18世紀に完成したスペイン階段やトレビの泉は,後期バロックの舞台装置的な空間の好みをよく示している。同様な都市空間の生成はアルプス以北の諸国にも見られ,フランスでは,アンリ4世の時代以降,パリに,円や三角,方形などの幾何学的な平面をもつ記念広場が,それを取り巻く市街建築の整備によって誕生した。バンドーム広場(J.H. マンサール,1685-99)やコンコルド広場(J.A. ガブリエル,1755-70)はその例である。こうした建築のスケールを超えた空間のデザインが,もうひとつ豊かな結実を見せたのは,17世紀フランスの幾何学式庭園であり,強い中軸線によって広大な庭の空間を統合するその方法は,ル・ノートルのベルサイユ宮殿の庭園において頂点に達し,その宮殿建築とともに,ヨーロッパ各国に大きな影響を与えた。

 さてイタリアは,世俗建築の分野でも,重要な原型を生み出している。それは先述のマデルノ,ベルニーニ,ボロミーニ,それに画家としても高名なピエトロ・ダ・コルトナが参加したローマのバルベリーニ宮殿(1628-33)で,開放的な中央部から左右にウイングが延びる構成,大階段室のモニュメンタルな扱い,錯視を応用した華麗な天井画などは,L.ル・ボーについでJ.H.マンサールが設計したベルサイユ宮殿の結実を経て,ヨーロッパ各国に広がった。

 ただこれら諸国におけるその後のバロックの展開を見た場合,地域によってかなりその現れ方に差があるのも事実である。すなわちスペイン,ラテン・アメリカ,ドイツ,オーストリアなどにおいては,イタリアにおいて見られたような傾向が,それぞれの地域色を加えてさらに発展するのが見られたが,フランスやイギリスなどにおいては,バロックの空間に固有のさまざまな特徴を備えながらも,様式的にはるかに古典的な抑制された表現が求められている。いまこれらの展開の様相を,おもな地域に限って見ていくことにすると,まずフランスにおいては,とくに宮殿と邸館(オテル)の建築に,中世以来のフランス建築の伝統に古典的な趣を採り入れた独自の様式が開花した。S.ド・ブロスがその先駆者であり,F.マンサールやル・ボー,F.ブロンデルが盛期の,J.H.マンサールが後期のバロックを代表している。彼らの造った邸館建築は,様式にこそ古典的秩序への傾斜が見られるものの,ギャラリーや大規模な階段室の採用など,空間の構成においては,イタリアの影響を受けるところが大きかった。

 イギリスにおいては,I.ジョーンズが,16世紀後半のイタリアのパラディオの建築理念を導入して,建築のイタリア化の先駆となり,晩年,バロックに接近したが,イタリアやフランスの巨匠たちの作品に学んでイギリス・バロック独自の様式を確立したのは,ロンドンのセント・ポール大聖堂(1675-1710)を設計したC.レンである。彼のあと,N.ホークスムアやJ.バンブラーがイギリスのバロックの担い手となったが,とくに後者のカースル・ハワード(1700-21)やブレニム宮殿(1705-25)は,イギリス・バロックの到達した地点を示すものである。

 ドイツ,オーストリアなどのゲルマン文化圏においては,民族的な志向のうちに動感にあふれる表現を求めるところがあり,イギリスとは対照的に,16世紀後半のイタリア建築の理念の導入において,すでに独自のバロック的な世界を樹立している。しかし三十年戦争のためにその展開は中断し,本格的な発展は17世紀末以降のこととなった。ゲルマンのバロックの特徴がとくに顕著なのは,宗教建築の分野で,イタリア・バロックの官能の陶酔を誘う表現に,強い空間構成への意志が加えられて,建築,絵画,彫刻が渾然一体となった世界が構築されている。わりに早い時期に属するのは,ウィーンのザンクト・カール・ボロメウス聖堂(1716)を造ったJ.B.フィッシャー・フォン・エルラハやJ.プランタウアーなどで,これにJ.L.vonヒルデブラント,デッカーPaul Decker(1677-1713)らがつづく。また宮廷建築においても,ザクセンのペッペルマンMatthäus Daniel Pöppelmann(1662-1736)がドレスデンに造ったツウィンガー宮殿(1711-28)や,ヒルデブラントのウィーンのベルベデーレ宮殿などのような作品があり,イタリアに端を発する大階段室のデザインは,ゲルマン文化圏において,もっとも幻想に満ちた世界を構築するに至っている。

 スペインのバロックは地方差が強いが,一般に豊麗な装飾へと向かう面が認められ,カスティリャのチュリゲラJosé-Benito de Churriguera(1665-1725)を中心とするチュリゲラ一族においてそれは最高潮に達する。彼らの建築様式,チュリゲレスコは,その後リベラPedro de Ribera(1683ころ-1742)によって,さらにその極限にまで推し進められた。彼のサン・フェルナンド養生院(マドリード,1722着工)はその代表作といえよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バロック美術」の意味・わかりやすい解説

バロック美術
ばろっくびじゅつ

17世紀初頭から18世紀前半にかけてのヨーロッパ美術の様式。バロックBaroqueの語源はポルトガル語もしくはスペイン語で「ゆがんだ形状の真珠」を意味するbarrocoに由来するといわれ、初め「不規則な」「グロテスクな」といった否定的ないしは侮蔑(ぶべつ)的な意味で、曲線を多用した装飾過剰のこの様式をよぶのに用いられた。しかし、19世紀後半以降その種の語源的意味は薄れ、今日では美術以外の他の芸術についても用いられる、客観的な時代および様式の概念となった。バロックは、ローマをキリスト教世界でもっとも美しい都市にしようとするローマ教皇の美術振興策に端を発しているため「反宗教改革の表現」とよばれ、さらに絶対王制下の豪奢(ごうしゃ)・華麗な趣味を反映するものとして「絶対主義の様式」ともいわれたことがある。いずれにせよ、端正なルネサンス美術に対して、動感に満ちた劇的表現を特色とする。

[野村太郎]

イタリアのバロック

ミケランジェロによるローマのサン・ピエトロ大聖堂の丸屋根の設計に、すでにバロックの序曲ともいうべき要素が認められ、17世紀初めのこの大聖堂の工事続行が新しい様式の発端となった。このとき工事主任となって本棟を完成したのはミケランジェロの弟子マデルナであるが、彼は師の創案した外観形式を踏襲しつつ、正面玄関の部分に劇的な強勢を与える独自のファサードをつくりだした。支柱の間隔が中央部に近づくにつれて狭くなり、壁面がしだいに前面にせり出してくるこのファサードは、「奥行をもつファサード」として空間と動的な関連性を生み出す画期的な新構想であった。マデルナに続くバロックの建築家にベルニーニの名があげられる。パラッツォ・バルベリーニ(基礎設計はマデルナ)、バチカン宮の階段、サン・ピエトロ大聖堂などのほか、ルイ14世に招かれてルーブル宮改築工事にも参画した彼は、バロック彫刻の完成者としても名高く、広大なサン・ピエトロ大聖堂の内部空間を新様式の彫刻で飾ったのは彼の力に負うところが大きい。彫刻の代表作には、彫像が積極的に緊迫した空間をはらんでいる『ダビデ像』(ローマ、ボルゲーゼ美術館)、光の導入によって物質感を止揚し劇的な幻覚体験を表出している『聖テレジアの法悦』(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ビットーリア教会のコルナーロ礼拝堂)、さらに彫像それ自体が変容の動態を示す『アポロンとダフネ』(ボルゲーゼ美術館)がある。建築におけるベルニーニの好敵手はボロミーニで、彼は凹面と凸面との複雑に交錯する弾力的な設計を得意とし、サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会、サンティボ教会堂などを建造した。彼の影響はトリノで開花し、後継者グアリーニによってパラッツォ・カリニャーノ、トリノ大聖堂の聖スダリオ礼拝堂の円蓋(えんがい)などが建設された。なおローマでは、サン・マルティナ聖堂などの設計、パラッツォ・バルベリーニの壁画、パラッツォ・ピッティ(フィレンツェ)の天井画などの作があるピエトロ・ダ・コルトーナがいる。

 バロック絵画の開花は、ローマのサン・ルイージ・ディ・フランチェーシ教会のコンタレリ礼拝堂に多くの大作を描いたカラバッジョによる。光と影との鋭い対比によって構図を深め、形象を写実的に浮彫りしてゆく彼の手法は、フランドル、スペイン、オランダのバロック絵画に多大の刺激を与えた。またアンニバーレ・カラッチも、古典に準拠しつつリズミカルな構成によって豪華なバロック的装飾美を追求し、兄アゴスティーノ、従兄(いとこ)のロドビコと協力してマニエリスムの克服を目ざすボローニャ派を創始した。アンニバーレの弟子レニ、ロドビコの影響を受けたグエルチーノもこの時代のフレスコ画家として知られる。

 なお、この時代にイタリアにあって活躍した外国の画家として、ドイツのエルスハイマー、フランドルのパウル・ブリル、フランスのプサンとクロード・ロランがいる。スペインのホセ・デ・リベラもカラバッジョに学んでバロック様式を発展させた。

[野村太郎]

オーストリアとドイツのバロック

北方のオーストリアとドイツでは、バロック建築は初めイタリア人の手で行われていたが、17世紀末以降、地元出身の設計家の活躍が始まる。ウィーンでは、聖カール・ホロメウス教会堂の設計でイタリアの伝統をもっともよく生かしたヨハン・フィッシャー・フォン・エルラハ、ロココを予見させる華麗なベルベデーレ宮とシェーンブルン宮を設計したヒルデブラントが知られる。そのほか、ヤコブ・ブランタウアー(ドナウ河畔のメルク修道院)、ペッペルマン(ドレスデンのツビンガー宮)、ゲオルク・ベール(ドレスデンの聖マリア教会)、シュリューター(ベルリン宮の設計と兵器廠(しょう)の内部装飾)、バルタザール・ノイマン(ウュルツブルクの司教宮殿)らが知られる。また後期バロックの代表作例に、アサム兄弟が自費で建立し、設計から装飾までいっさいを2人の手で行ったミュンヘンのヨハネス・ネポムク教会(1733~1735)がある。

[野村太郎]

フランドルとオランダのバロック絵画

この地方のバロックは絵画によって代表されるが、まずフランドル絵画ではルーベンスの存在がとくに重要である。彼は23歳から8年間イタリアに学び、北欧と南欧の壁を打破することに努める一方、当時およびその後アンベルス(アントウェルペン)に定住してからも、外交上の使命を帯びてヨーロッパの主要国家の王宮を訪問し、その際バロック様式の国際化に多大の貢献をした。彼がイタリア滞在中に熱心に研究したのは、古代彫刻、盛期ルネサンスの傑作(レオナルドの模写はとくに有名)、およびカラバッジョやアンニバーレ・カラッチの諸作であったが、その成果は帰国後最初に手がけたアンベルス大聖堂の板絵の祭壇画『十字架立て』に顕著に示されている。1620年以後の10年間は、ルーベンスと彼の工房のもっとも多産な時期で、ヨーロッパ諸国の教会や王宮のために、多数のドラマチックで華麗な装飾画をつくっている。なかでも有名なものが、フランス国王アンリ4世の妃マリ・ド・メディシスの生涯をたたえたパリのリュクサンブール宮の連作(現在ルーブル美術館その他蔵)で、ルーベンスは神話と寓意(ぐうい)とを動員し、色彩とフォルムの絢爛(けんらん)たる一大スペクタクルに仕上げている。彼の工房からは、優れた後継者として国際的に活躍したファン・ダイクを出した。

 オランダ絵画では、レンブラントの存在がぬきんでている。彼は生涯に一度もイタリアの地を踏んだことはなかったが、明らかにカラバッジョとの間接的な接触によって刺激されたとみなされている。30歳の作品『目をつぶされるサムソン』にみられる光の集中的な利用によるドラマの構成は、バロックの特徴的な作例だが、これは『夜警』で最高潮に達する。群像を明暗の深い奥行のなかで重層的に処理し、大画面にダイナミックな緊張感を与えた絵画史上の傑作だが、依頼主にとっては表情が影になったり部分的に隠れているこの絵は不評で、以後レンブラントの後半生を孤独に追いやった分岐点をなしたともいわれている。この時期以後、彼の絵は光に対する理想主義と形象に対する写実主義とを内面的に推し進めて、バロックの饒舌(じょうぜつ)を内的に深刻なドラマに昇華する宗教画や自画像の傑作を生んだ。

[野村太郎]

スペインのバロック

17世紀末から18世紀前半にかけて、スペインでは独特のバロック建築が発展するが、それはイタリア・バロックにスペイン伝来の様式や、マヤ、アステカ、インカの中南米様式を加えた装飾性に富む幻覚的な空間の構築に向かった。いわゆるチュリゲーラ様式がそれで、その先駆者ホセ・チュリゲーラは、2人の息子と多くの弟子を動員して、サラマンカのサン・エステバン教会堂に高さ30メートルに及ぶ壮麗な聖ステパノの祭壇衝立(ついたて)をつくった。その他の特色ある作例では、トレド大聖堂内トランスバレンテ礼拝堂、グラナダのカルト派修道院聖器室、サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の「オブライト」とよばれるファサードなどが名高い。絵画ではとくにセビーリャがスペイン・バロック絵画の中心的都市であった。スルバランはこのセビーリャ派の中心的存在で、その激越な自然主義的作風により「スペインのカラバッジョ」と称せられた。彼と同時代のベラスケスもセビーリャ出身で、早くからリベラおよびカラバッジョの影響を受けて、市井の人物を写実的手法で描いた。のちマドリードに出たベラスケスはフェリペ4世の宮廷画家となり、外交的使命を帯びてやってきたルーベンスの知遇を受けた。そしてイタリア旅行で主としてベネチア派の色彩を研究、帰国後描いた『ブレダの開城』では、構成の自然さで画期的効果をあげ、代表作『ラス・メニーナス』など多くの肖像画で、光を純粋に視覚的に追求している。

[野村太郎]

フランスのバロック

ここでは、バロック建築はジャック・ルメルシエ、フランソア・マンサールらによって吸収されたが、イタリア・ルネサンスと密接な関係にある人文主義の伝統の根強いこの国では、バロックは著しく古典主義的色彩を帯びている。事実フランスでは、バロックを「ルイ14世の様式」として限定的によぶこともあり、この意味でフランス絶対王制の象徴的建築は、ルイ14世の命によるベルサイユ宮の大造営であった。その設計はアルドゥアン・マンサール、造園はル・ノートル、装飾は画家ルブランの手にゆだねられた。絵画ではブーエ、カロ、ル・ナン兄弟、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの名があげられ、彫刻ではジラルドン、コアズボの古典風に対して、ピュジェには激しい感情表出がみられる。

 イギリス・バロックでは、ロンドンのセント・ポール大聖堂を再建したクリストファー・レン、風刺を武器とした画家ホガースが注目される。

[野村太郎]

『V・L・タピエ著、高階秀爾・坂本満訳『バロック芸術』(白水社・文庫クセジュ)』『土方定一著『大系世界の美術16 バロック美術』(1976・学習研究社)』『A・ドース著、成瀬駒男訳『バロック論』(1969・筑摩書房)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バロック美術」の意味・わかりやすい解説

バロック美術
バロックびじゅつ
Baroque art

1600~1715年頃にヨーロッパに展開した古典美術に対する様式概念。豊麗で感覚的,現実的な特徴をもつ。イタリアのルネサンス盛期の豪壮な美術(→ルネサンス美術)のなかに芽生え,マニエリスムを経て開花,ヨーロッパ各地に普及した。代表的作家はイタリアのジョバンニ・ロレンツォ・ベルニーニ,ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラバッジオ,ロドビゴ・カラッチとその一派,フランスのニコラ・プーサン,スペインのエル・グレコ,ディエゴ・ベラスケス,そのほかピーテル・パウル・ルーベンスとその一派,レンブラント・ファン・レインなど。

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世界大百科事典(旧版)内のバロック美術の言及

【イタリア美術】より

…画家ではピエトロ・ダ・コルトナ,A.ポッツォが,イリュージョニスティックな天井画を描いて信者を天国へと誘った。バロック美術
【18~19世紀】
 18世紀は,ベネチアが,印象主義の真の祖とも呼びうる〈ベドゥータveduta(眺望画)〉によって,現代を予告している。カナレット,F.グアルディは,外光の描写を初めて実現した。…

【ドイツ美術】より

…またM.ギュンターとI.ギュンター,同じくJ.B.ツィンマーマンとD.ツィンマーマンのように,共働した画家と彫刻家あるいは建築家とが兄弟であることもしばしばで,たとえまったく別人同士の手になったとしても,サンスーシ宮殿の正面やツウィンガー宮殿のパビリオンのごとく建築と彫刻とは相即不離の関係を持っている。バロック美術ロココ美術
【19世紀以降】
 19世紀以降は種々の美術様式が交代あるいは並存して,統一的な時代様式概念をもっては把握できない複雑な様相を呈する。王公の貴族階級に支えられた18世紀後半のロココ美術はバロックの爛熟段階をなし,極度に洗練され,著しく感覚化した様式となる。…

※「バロック美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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