ドイツ中西部の州(ラント)。歴史的には旧ドイツの領邦国家ヘッセン・カッセルHessen-Kasselとヘッセン・ダルムシュタットHessen-Darmstadtを母体としている。面積2万1115km2,人口610万(2004)。州都はウィースバーデンだが,最大の都市はフランクフルト・アム・マインで,州行政以外は経済的にも文化的にもフランクフルトが州の中心となっている。
ドイツを南北に分かつマイン川が州のほぼ中央を東から西に流れる。マイン川以南の土地は南東部のオーデンワルトOdenwald山地を除き上部ライン平原に連なる低地で,これはマイン川を越えて州中央部にも入り込んでいるが,州の東西両側面と北部は中部山岳地帯に属する山地で覆われ,その間をライン川の支流ラーンLahn川やウェーザー川の支流フルダFulda川やウェラWerra川が流れて複雑な地形を形づくっている。北部の山間の多数の小盆地は〈ヘッセンのくぼ地〉といわれる。
ヘッセン人の祖先は民族移動期以後マイン川とウェラ川の間に定住したフランクの一支族カッティ族で,8世紀に〈ドイツ人の使徒〉ボニファティウスの布教によってキリスト教化されている。ヘッセンは当初王領地として国王代官に治められていたが,12世紀にチューリンゲン方伯の支配下に入ってから領邦としての独自の発展を始める。
1247年チューリンゲン方伯家の男系断絶ののち,ブラバント家のハインリヒ1世Heinrich Ⅰ(1244-1308)がヘッセン方伯となり,92年帝国諸侯に列せられた。方伯は1277年以降カッセルに居城を構え,ヘッセンに勢力を伸ばそうとするマインツ大司教と争いつつ支配圏を広げ,フィリップ寛仁伯Philipp der Grossmütige(1504-67)の時代にその勢力は絶頂に達した。時あたかも宗教改革の時代,彼は1526年自国にプロテスタンティズムを導入するとともに,27年ドイツ最初のプロテスタントの大学としてマールブルク大学を創立,またルター派とカルバン派の仲介を試みるなどプロテスタント諸侯の中心として活躍した。その死後,領土は4子に分割相続され,のちヘッセン・カッセルとヘッセン・ダルムシュタットの2邦に整理されたが,両ヘッセンは以後互いにはげしく対立し合うのみで,もはやドイツの指導的領邦とはならなかった。
ヘッセン・カッセルの君主は18世紀に自国の軍隊を他国に貸し出す〈兵士貿易〉を行い,その金でカッセルに豪華な宮殿を造営したことで悪名が高い。アメリカ独立戦争におけるイギリス軍の主力は1万7000のヘッセン兵である。ヘッセン方伯は1803年選帝侯となり(以後ヘッセン・カッセルはクールヘッセンKurhessenと呼ばれる),1830年の革命ののち31年に憲法も発布されたが,その後も反動的な君主,政府と国民の間に紛争が絶えず,それは1866年この国がプロイセンに併合されるまで続いた。
他方,ヘッセン・ダルムシュタットは,18世紀末の方伯妃ヘンリエッテ・カロリーネHenriette Karoline Christiane(1721-74)の文芸サロンが知られるほかは取りたてて注目されるような国ではなかったが,ナポレオン時代の1806年に大公国となり,〈ライン同盟〉の一つとして領土を大幅に拡大,また20年に憲法も発布して国の地位を高めた。66年普墺戦争に際してはオーストリア側についたが,クールヘッセンとは違って取りつぶしは免れ,北ドイツ連邦(マイン川以北地域に関してのみ加盟)を経てドイツ帝国の構成国になった。第1次世界大戦後はヘッセン自由国としてワイマール共和国の一州となり,第2次大戦後,旧プロイセンのヘッセン・ナッサウHessen-Nassau州(1866年にプロイセンに併合されたクールヘッセン,ナッサウ,フランクフルト・アム・マインから成る)とともに現在のヘッセン州に編入された(ライン左岸のラインヘッセンはラインラント・ファルツ州に編入)。1946年発布の州憲法の下で議会制民主主義の政治が行われている。
州の就業人口の産業部門別構成は農林業6.3%,製造業48.6%,第3次産業45%(1970)となっている。商工業の中心はフランクフルト・アム・マイン周辺のライン・マイン地域にあり,ここに州人口の30%が住んでいるが,なおカッセルの機関車製造工業(ヘンシェル社)やウェッツラーの光学機器(ライツ社)も19世紀来有名である。農業は相続法の違いから(北部は一子相続,南部は分割相続),州北部は比較的大経営,南部には零細経営が多いのが特徴である。
ヘッセンは北ドイツと南ドイツの中間地帯で,このことは上記の相続法についてもいえるが,言葉についてもカッセル近郊を低地ドイツ語と中部ドイツ語の言語境界線が通っていることはよく知られている。宗教は住民の3分の2がプロテスタント。カトリック教徒はフルダ(旧,フルダ司教領),ラインガウ(旧,マインツ大司教領),リンブルク(旧,トリール大司教領)に多い。
執筆者:坂井 栄八郎
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ドイツ中部を占める州。面積2万1114平方キロメートル、人口606万8100(2000)。州都はウィースバーデン。1945年に制定された州域は、北部、中部、南部に分けられる。ウェーザー川支流フルダ川の流域に属す北部とライン川支流ラーン川の流域に属す中部は、フォーゲルスベルク火山(774メートル)、タウヌス山地、ヘッセン丘陵地など緩い起伏の山地・丘陵地とその間に点在する盆地からなる。各盆地には、カッセル、マールブルク、ギーセン、フルダなどの地方中心都市が発達し、周辺は耕地や牧草地が広がり、森林も多い。南ヘッセンは、ライン・マイン地方と称され、ライン川とマイン川の河谷平野である。気候温暖でブドウ栽培や園芸農業もみられるが、州都や州内最大の都市フランクフルト・アム・マイン、オッフェンバハ、ダルムシュタットなど多くの商工業都市が集中し、ドイツ経済の中核地の一つである。
[朝野洋一]
13世紀後半にチューリンゲン地方伯領から分離し、カッセルを首都として独立の地方伯領となった。宗教改革時代にフィリップ1世(寛大公、在位1509~67)は新教派諸侯の指導者として活躍したが、その死後領土は4人の子供の間で分割された。そのうちで長く続くのはヘッセン・カッセルと、ヘッセン・ダルムシュタットである。ヘッセン・カッセルは旧領の大半を含み、1803年には選帝侯位を認められた。ナポレオン時代には一時ウェストファリア王国に併合されたが、その没落とともに独立を回復、1866年のプロイセン・オーストリア戦争でオーストリア側にたったために、プロイセンに合併された。第二次世界大戦後はヘッセン州の一部となっている。ヘッセン・ダルムシュタットはプロイセン・オーストリア戦争で領土の一部をプロイセンに割譲、1870年ドイツ帝国に加わり、第二次世界大戦後ヘッセン州とラインラント・プファルツ州とに分属することになった。
[中村賢二郎]
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ドイツ中西部の一州。首府はヴィースバーデン。旧領邦ヘッセン方伯国は16世紀宗教改革期に方伯フィリップのもとでザクセンと並ぶルター派の雄邦となり,マールブルク大学も彼によりルター派の大学として新設された。王の死後分割と統合を重ねた末,ヘッセン‐カッセル(のち選帝侯国)とヘッセン‐ダルムシュタット(のち大公国)に分かれ,第二次世界大戦後再統合され,ナッサウとともにヘッセン州となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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