日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボナール」の意味・わかりやすい解説
ボナール(Pierre Bonnard)
ぼなーる
Pierre Bonnard
(1867―1947)
フランスの画家。10月3日パリ郊外のフォントネ・オ・ローズの典型的な中産階級の家庭に生まれる。大学では法学部に籍を置いたが、絵画への思いはやみがたく、1887年に画塾アカデミー・ジュリアンに入る。ここでセリュジエ、ドニ、ランソンらと知り合い、やがて彼らとともにナビ派を形成し、装飾的画風を展開する。しかし、彼はナビ派のもつ神秘的・宗教的側面には冷ややかであった。この時代のボナールにとってとりわけ重要だったのは日本の浮世絵版画であり、彼は日本的手法を駆使して、世紀末パリの移り行く現代生活を描いた。また舞台装置やポスター、挿絵、版画などにも手を染め、衝立(ついたて)制作に情熱を傾けた。世紀の変わり目ごろからは、友人ビュイヤールとともに、室内情景や日常生活の身辺にモチーフを求め、アンティミスト(親密派)とよばれるようになる。さらに、世紀末には官能的なほの暗い熱気のこもった裸婦像『しどけない女』(1899)や『午睡』(1900)などを描くが、1908年の『逆光の裸婦』あたりから色彩は明るくなり、やがて『浴槽の裸婦』(1937)のような、光と色彩の乱舞する裸婦の傑作が生まれることになる。
ともあれ、1909年の南仏サン・トロペ滞在をきっかけに、ボナールは色彩画家としての自覚を得、色彩の目くるめく世界へと着実に歩を進めてゆく。1912年にはパリから80キロメートル、セーヌ川を下ったベルノネに小さな田舎(いなか)家を購入、また1925年には南仏ル・カンネに家を買い求めた。彼はその中・後期において、セーヌ流域や南仏の風景を描く画家であるとともに、地中海的調和と叙情に満ちた神話的・牧歌的風景を描く画家でもあり、またごくありふれた日常生活のなかにモチーフを求めるにせよ、なによりも色彩そのものの表現力を追求する、大胆で革命的な色彩画家であった。晩年に至って、画面はさながらタペストリーにも似て、震える色彩の平坦(へいたん)な面と化し、同時にフォルムは抽象へと接近する。1947年1月23日ル・カンネで死去した。
[大森達次]
『A・フェルミジエ著、木島俊介訳『ボナール』(1969・美術出版社)』▽『大岡信解説『現代世界美術全集11 ボナール/マティス』(1971・集英社)』▽『大森達次編『現代世界の美術9 ボナール』(1986・集英社)』
ボナール(Louis Gabriel Ambroise Bonald)
ぼなーる
Louis Gabriel Ambroise Bonald
(1754―1840)
フランスの政治学者、政治家。ド・メーストルとともに、熱烈なカトリック復古主義の主唱者。啓蒙(けいもう)思想とフランス革命の原理に反対し、王権と教会の権威を弁護した。1791年にハイデルベルクに亡命、1796年に書いた『政治権力と宗教権力についての理論』は、あまりにも王党派的であるとして革命政府の執政官から非難された。1797年に帰国。1814年ブルボン王朝の復古によりボナールも政府の要職につき、1816年にはフランス・アカデミーの会員に指名され、1821年には爵位を叙せられ、1823年には貴族院議員となる。1815年『ヨーロッパの一般的利益に関する考察』を書き、1830年には『社会の形成原理についての哲学的証明』を公刊。同年七月革命が勃発(ぼっぱつ)し、以後故郷ル・モンナで晩年を過ごす。彼の政治論は聖書と伝統を根拠にし、君主は神が制定した自然法の唯一の執行者であるとして君権的絶対主義を擁護し、ルソー的社会契約論やモンテスキュー的三権分立論を否定したものであった。
[田中 浩]