日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボルタンスキー」の意味・わかりやすい解説
ボルタンスキー
ぼるたんすきー
Christian Boltanski
(1944―2021)
フランスの美術家。パリ生まれ。幼いころから美術に強い関心を示し、1958年には早くも「歴史と劇的事件の絵画」と題した大作絵画のシリーズの制作を開始するなど、正規の美術教育を受けずに独学によって自身のスタイルを追求する。1960年代の終わりごろより、『咳(せき)をする男』『舐(な)める男』『私が思い出すすべて』といった短編の実験映画や、髪の毛や自分あての手紙を知人に送付するメール・アート(手紙や葉書を作品に見立てる表現様式)の制作を行う。1968年にはパリのラヌラ劇場で初個展を開催、ビスケットの箱のなかに自分の存在を証明するさまざまなオブジェを封入し、箱のラベルを毎日取り替えるインスタレーションを発表する。
24歳で絵画を描くことを止めたボルタンスキーの関心は、以後彫刻、写真、実験映画など多彩な領域へと広がってゆくが、その主たる関心はパーソナル・ヒストリーを語ることに向けられており、なかでも写真は、虚実取り混ぜた自分だけの物語を構築する素材として頻繁に活用された。自らが道化に扮(ふん)して別の人格を演じてみせたシリーズ作品「こっけいな寸劇」(1974)はその代表例である。ボルタンスキーが写真を好むのには、「私たちはつねに日々死んでいく。この世に永遠の命などない」という死生観も深くかかわっている。またボルタンスキーは、写真と同様小物や日用品も収集や再構成の対象としてしばしば活用した。
1977~1984年に制作されたインスタレーション作品『コンポジション』は、子供時代に遊んだ玩具(がんぐ)と静物画を組み合わせ、時間について考えた試みである。また1985年に最初のシリーズが制作された「モニュメント」も、複数の子供の額装された写真を電飾することによって過去の記憶を前景化しようとする、いずれも作家としての成熟を示す作品である。記憶をテーマとしたその独自の作風はパリの現代美術センター(1974)、ニューヨークのP. S. 1コンテンポラリー・アート・センター(1978)、ポンピドー・センター(1984)などでの大規模な個展、あるいはベネチア・ビエンナーレ、ドクメンタ、「大地の魔術師たち」展(1989、ポンピドー・センター)のような国際展を通じて広く知られることとなった。日本でも、第3回越後妻有(つまり)トリエンナーレ(2006)に際してジャン・カルマンJean Kalman(1945― )と共同で制作した大規模なインスタレーション作品『最後の教室』が恒久設置されている。1975年にはDAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてベルリンに滞在、1981年にはアメリカ、ハーバード大学に招聘(しょうへい)されるなど海外での活動歴も豊富であり、1986年からパリのエコール・デ・ボザール(フランス国立美術学校)で教鞭(きょうべん)をとり、マルチメディア講座を担当した。
ジャン・ル・ガックJean Le Gac(1936― )やアネット・メサジェAnnette Messager(1943― )など親交を結ぶアーティストも多かったが、なかでも映像作家のアラン・フレッシャーAlain Fleischer(1944― )との親交は深く、フレッシャーはボルタンスキーの制作活動をカメラに収めたドキュメンタリー映像を数本制作した。
[暮沢剛巳]
『Lynn GumpertChristian Boltanski (1994, Flammarion, Paris)』▽『「アート・ドキュメンタリー映画際 '95」(カタログ。1995・ユーロスペース)』▽『「Art for the Spirit――永遠のまなざし」(カタログ。2001・北海道立近代美術館)』